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ふたりぼっちの世界 ③(補足)

聖書という本は、「信仰」という「神の霊」によって、読むものである。

では、「神の霊」、すなわち「聖霊」によって読んでいないと、どうなるのか――?

これまで述べて来たような、「アブラハムの子孫とはユダヤ民族である」というような「世紀のマトハズレ」の他にも、たとえば以下のような、「日常的カンチガイ」が起こる。

これは、世界中にちらばっている教会なんかで、ごくごく当たり前のように目撃することのできる日常風景であり、かつ、個人的な体験でもある。

比較的、分かりやすい具体例になると思ったので、『ふたりぼっちの世界』という一連の文章の補足として、書いておこうと思う。


たとえば『ヨハネの福音書』なんかで、己の最後の時を悟ったイエスは、弟子たちに向かってこのように言っている。

すなわち、

―― わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。 ――

―― わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと… ――


なんともまあ、大変に魅力的な言葉である。

それゆえに、

巷にある「教会」の中なんかで、自らを「祭司」だの「レビ人」だの「クリスチャン」だのと自称している人間たちが、「アーメン」と祈る際には、必ずと言っていいほど、「イエス様のお名前によって…」とか、「in Jesus name we pray…」とかいう文言が付けられている。

で、このような、いわば「枕詞」であるが、

ここで、はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

イエスがそのように言った「真意」も分からないで、門前の小僧よろしく「お名前によって」を唱えていても、まったくもって無意味である。無駄である。無効果である。(私がいつも言っている「アーメンごっこ」とは、こういうことなのである。)

これは、子供の頃から「教会」とか「クリスチャン」といかいう世界を観察して来た「観察記録」からだけでなく、自分の失敗とも言える「実体験」からしても、自信をもって語れる事柄である。

―― わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。 ――

このような言葉の述べられた聖書の周辺を、私が数えてみただけでも、およそ6回、イエスは同様の言葉を弟子たちに向かって語っている。

それだけ重ねて語るからには、それだけ強調したい内容であったからだ。

さりながら、

そんなふうに、くりかえしくりかえし、くりかえしくりかえし、イエスが「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」と言った、この「何でも」とは、「聖霊」のことである。

これが、この文章の目的なので、私もくり返して言っておくが、

イエスの言った「何でも」とは、ただひとえに「聖霊」それだけのことであり、ほかのなにものでもありはしない。

私は、ほかならぬ「信仰」によって、この「何でも」を「聖霊」のことであると確信している。ほかならぬ「聖霊」によって、そう教えられたからである。

なぜとならば、「聖霊」とは「神」であり、「聖霊を与える」とは「神御自身を与える」という意味だからである。しょせん虫けらのような人間であっても、望むならば「神御自身をも与える」というのだから、「何でも」という表現が用いられているのである。

しかししかし、

「聖霊」の与えられていないまま読んでいた頃には、「何でも」を文字通りに「何でも」としか読むことができなかった。それゆえに、たとえば苦難患難に襲われた際には、その「解決」や「救い」や「癒し」やを「イエスの名によって」祈り続けてみたのだったが、いくら「イエスの名によって」をくり返してみたところが、待てど暮らせど、「祈りがかなえられることがなかった」のである。

いま、

憐れみ深い父なる神の「憐れみ」と、「イエス・キリストの名」とによって、イエスを死者の中から復活させた「神の霊」である「聖霊」が、私に与えられた。

それゆえに、

―― しかし、弁護者、すなわち、父がわたし(イエス・キリスト)の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。――

という言葉のとおりで、

2000年前の今日、ヨハネやペテロやヤコブなんかと一緒に、私がこの耳をもってイエスから聞いた言葉の数々について、あまねく、ことごとく、あますところなく、「聖霊」が教えてくれているのである。


にもかかわらず、

「聖霊」が与えられていながらも、イエスの言った「何でも」を文字通りにしか信じられないほど、追い詰められていたこともあった。

そんな時には、やはり「何でも」は「何でも」としか考えられず、そんなふうにして「聖霊」という神の声を聞き分けることもできずに苦しみ、のたうちまわっていた――これもまた、いやというほどの痛みをともなった私の実体験をもって語れる、「失敗談」である。

そんな時には、「祈りがかなえられないのは、誰かを許していないからだ」とか、「間違った動機で祈っているからだ」とか、「忍耐を試されているからだ」とか、「あなたがたが願い求めるならば、とイエスは言ったのであって、「あなたがた」とはクリスチャンの集いであるところの「教会」のことだ」とか――まあ、そんな程度の「教会的お説教」をば、真剣に傾聴し、真剣に実践していたのである。これもいわば、「若気の至り」とでも言うべき「苦い思い出話」である。


それゆえに、

いま、

神の憐れみによって、「何でも」が「聖霊」のことであると、はっきりとはっきりとはっきりと、私の目睫において啓示された以上、私はもはやかつてのように、「何でも」をその文字通りに信じることはすまい。

あえて、この箇所について、聖書的な解説を試みるとしても、

イエスが「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」をくり返した文脈は、「わたしはこれから世を去って父のもとへ帰っていくので、もはや弟子たちとともにはいられない。それゆえに、父のもとから、聖霊という助け主を遣わすことを約束しよう」――という、「イエス・キリストの約束」を語っていたのであった。

これが、「インマヌエルの約束」であり、「神の約束はこの方(イエス)においてことごとく然りとなった」という聖書の言葉の意味そのものでもある。

であるからして、

私はもう二度と、「何でも」を文字通りに「何でも」と思い込んで、「イエス様のお名前によって」を門前小僧的に唱えようとは思わない。

そのような「アーメンごっこ」を意識的にでも無意識的にでもやり続ける理由はもはやなく、そんなバカな脳みそでもなく、オメデタキ身分でもなく、ヒマな五体でもない。

余談ではあるが、

私がここでしたように、

―― わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。 ――

というイエスの残した言葉の「何でも」とは「聖霊」のことであると、

私のようにはっきりと、大胆に語り得た人間を、私は私以外に一人も知らない。

ただの無知無学ゆえに知らないだけであるならば、どうぞ、無知でも無学でもない読者諸氏の憐れみによって、私に教えてください。私はそのような人とならば、ぜひとも知り合いたいと思うから。

しかし、私のもう一つの口癖として、今日をもってしても、あらためて、いかなる「アーメンごっこ」にも、「カンチガイ」にも、「マトハズレ」にも、永遠にさようなら…!

私には、なすべき仕事があり、走りぬくべき行程がある。

歩き続けなければならない「イエスとわたしのふたりぼっちの旅路」があり、

見つめ続ければならない「イエスとわたしの永遠の風景」があり、

あいまみえ続けなければいけない「イエスとわたしの父なる神の憐れみの顔」がある。

そのためにこそ、私は今日も(そして、いつもいつでもいつまでも)、イエス・キリストの名によって、「神の霊」を、「聖霊」を、「神御自身」を、父なる神に向かって祈り求めるのである。

(アーメン)



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