見出し画像

FIREできる人はFIREしない

「FIREできる人はFIREしない」っていう逆説的な話がありますが、この度自分の中で腹落ちしたんで備忘録的に書き連ねようかと。

「FIREできる人はFIREしない」なんて、これまでにも多くの方が言っていて、何も新しい切り口とかはないけれど、自分の中で「やっぱそうだよな」と思えたのでメモしておく、そんな程度です。後々「ああ、あの時自分こんなこと考えてたな」って思えたらいいかな、と。

この記事を読んでいる方はご存知のことと思いますが、念の為FIREについて簡単に補足を。

※FIRE: 「Financial Independence, Retire Early」。雑に説明すると、「不労所得 > 生活費」(かつ、4%ルールの条件を満たす)となれば引退しちゃっていいよね、的な状態。雑な説明なので、詳しく知りたい方はご自身で調べてみてください。

FIREした後のことを考えたら。虚無感との闘い。

FIREした後の虚無感

手始めに自分の状況をざっくり説明すると、「今の感じでいったら〜歳頃FIREできそうだな」という大まかな見通しが立った、そんな感じです。もちろん、計画が夢想に終わる可能性は秘めてますが。

ただそんな中、実際にFIREしたらどうなるかな、ってことを考えてみるわけです。

これまで「FIREできる人は、遊んでいるだけだとそのうち虚無感に襲われて結局RE(早期引退)しない」っていう意見や体験談を見聞きすることはありました。

ただ、「自分の場合は本当にそうなるだろうか?」っていうのもありましたし、「どうなるかはFIREしてから考えればいいか」くらいに考えていたんですが、最近「どうやら自分も早期引退はしそうにないな」と思えてきました。

というのも、まずはベタに「虚無感に包まれたまま生き続けるなんてつまらなさそうだな」と思うからです。

人生100年時代、気楽ではあるものの死ぬまでの数十年間虚無感とともに生き続ける、なんてそれこそ生き地獄だろう、と。

例えば、同級生だったり、テレビで同世代の人がいい仕事しているのを見たら、高確率で「この人はこんなにいい仕事をしているのに、俺は何も産み出してないな」とか思ってしまうと思う。

「幸せに生きるためには、人と比べないことが大事。自分が納得できていればOK」と言ったって、仕事を通じて何も価値を産み出していない状況に誰よりも自分が納得できていないと思う。仕事だけが生きがいじゃないのは十分わかってはいるが、ゼロだとさすがにきつい。

それに、FIREして最初の数ヶ月、もしくは1〜2年くらいは自分のやりたいことを片っ端からやるだろうけど、そんなのすぐに飽きるだろうな、ということがリアルにイメージされてしまった。

というか、最近の生活ですら時間にそれなりにゆとりがあって、1日の中で時間を持て余す、みたいなことがちらほら出てきている(だからこそ新しいことをやり始めたりしてますが)。ここからさらに可処分時間が増えて、週7フリーになったとしたら、持て余すのは必至、そんな気がする。

時間がない人(かつての自分含む)からしたらこれはこれで贅沢な悩みなんだろうけど、これはこれでまあまあ辛い。時間がなくてやりたいことをできない、っていうのと同じかそれ以上に辛い。昔「極度の空腹と極度の満腹だと極度の満腹の方が辛い」的な説が水ダウであったけど、それに近い感覚かもしれない。何事も行き過ぎは良くない。

FIREできるような人にとってREは苦行かもしれない

経済的自立と早期引退

あとは、FIREできるような人は、(決して自分のことを言っているわけではなく、一般論として)それだけ仕事ができるなど何らかの形で社会への価値提供ができている。だからこそ収入も高い。さらに、リテラシーの高さや自分をコントロールすることができるからこそFIREを達成できる。そう思っています。

果たしてそんな人がいざ働かなくてよい権利を手にしたところで、働かなくなるか。答えはたぶんNOだろうな、と思うわけです。

もちろん、少しくらい休むことはあるかもしれませんが、休んでまた英気が養われたら何かまたやりたく"なっちゃう"んだろうな、と。

※なお、この場合の想定しているFIREは「生活費を極限まで切り詰めて何とかFIREする」というスタイルではなくて、「その人にとって"普通"の暮らしをするのに困らないだけの資産がある」的な状態を前提としています。

某動画で有名なファンドマネージャーの奥野一成さんと藤野英人さんが対談している中で、奥野さんが「FIREには興味がない」的なことや、「社会との関わりがなくなって何が良いのか」的なことを仰っていたわけですが、この意見についても、「確かにそうだな」と思います。

仕事をしていると組織や人間関係が面倒くさいと感じることはあると思いますが、じゃあ逆に社会との関わりが一切なくなったとしたら、それはそれでまたしんどいだろうな、と。

例えば、5年くらい臨床の仕事をしてなくて、ある時やっぱり復帰しようって思っても、スムーズに戻っていけるかっていうとそうではないと思いますし。5年前より周りはスキルアップしている中で自分だけスキルの維持すらできていないわけで。誰がそんな医者に診てもらいたいんだよ、と。

金はあるけど、医者としては今はもう何もできないやつになりたいか、と。そんなの絶対に嫌。こうなるとかなりきついだろうな、と。袋小路に入っちゃって、なかなか抜け出せない。

また、つい先日も道で大きめの声で独り言を発しながら歩いているおじさんを見かけましたが、極論を言うと、社会との関わりがないままずっと過ごしているとあんな感じになっちゃうんじゃないか、という危惧もあります。

「こんな風になれるんであれば、ずっと仕事しててもいいな」

その他、早期引退が自分にとって本当に幸せなことなのか、と思うようになったきっかけの一つとして、上記のおじさんとはまた別の例として、2人の魚屋のおじさんの話をします。

家の近所にとある魚屋さんがあります。魚屋さんAとします。

先日魚屋Aができていることを歩いていてたまたま知り、何回か刺身などを買ったのですが、とにかくそこの大将(年齢的にはおじいちゃん)の生気がない。

「これください」とか言うのはレジの若い男性に対してなので、大将の覇気の無さははじめはそれほど気にならなかったものの、ある時店の奥の方にいる大将に注意が向いた時、覇気の無さに気付いてしまった。

覇気もないし、言葉に力強さもないし、目に力がない。

個人商店でこんな人見るのも珍しいな、と思って試しにそのお店のことをググってみると、どうやらそのおじちゃんが自分でやっている店ではなくて、オーナーは別にいて、おじいちゃんは雇われであることが判明(雇われが悪いって言っているわけではないので悪しからず)。

「あーそういうことか」ってなりました。

魚の質がいまいち、ってこともあって、その魚屋Aにはほどなくして行かなくなりました。やっぱ生気がない人がする仕事って、質が上がってこないのかな、と。

一方、家からちょっと歩いたところに別の魚屋さんBがあるのですが、ここの大将のおじいちゃんはとにかく目に力がある。

Googleの口コミがあまりに良いので行ってみたところ、THE・商売人って感じで、粋で、一挙手一投足がとにかく超カッコいい。

聞けば、先代がお店を開いて、それを継いだとのこと。

目や言葉に力があるし、客への愛もあって、「あ、こんな感じだったらずっと仕事してるのもいいな」って反射的に思いました。FIREを夢想する人間に秒でここまでの価値観の転換を起こさせる大将マジすごいとしか言いようがない。自分が店にいる間も、常連さんがちょくちょく来て、大将といい感じのコミュニケーションを取って去っていく。完全にラポールが形成されている。

確か自分はその時刺身や大きめの海老を買ったのですが、「今日刺身で明日海老フライかい。豪華だね。この海老ももし売れなかったら自分で食べようと思ってたんだけどね。この海老は美味いよ」的なことを言われ、なんかすごくいいな、と。

自分が食べたいと思えるようなものを売っている、っていうのも信頼できますし。

この2人の魚屋の大将(2人は同年代)を比較して、「自分で自分の人生に責任持って、主体的に、日々『どうしたらより良くなるか?』ってことに頭使って生きているのとそうでないのとは、こんなにも発するエネルギーが違うんだな」ということを実感しました。

もちろん、雇われの大将の方が一概に悪いってことが言いたいわけではないですが、自分がどちらになりたいかと言われれば、当然元気で粋な魚屋Bの大将なわけです。

この元気で粋な魚屋Bの大将なんかは、おいしい魚に関する知識や経験、ネットワークを駆使して、「この魚はおいしいからこのぐらい仕入れたら売れるだろうし⚪︎⚪︎さん喜ぶだろうな」とか日々考えてるからこそ、いつまでも目に輝きがあるんだろうな、とも思います。そして、顧客にとっての価値を創出すればするほど大将のリターンも増える。これは、資本主義の良い所。

FIREへの近道はFIREに興味がないことか

逆説的ですが、FIREに興味がないような人の方が、(是が非でもFIREしたい人に比して)FIREの権利は得やすい(=FIしやすい)、みたいなところはあるのかな、と。実際にRE(早期引退)するかどうかは別にして。
(もちろん、浪費しないことや、ある程度の金融リテラシーは保有しているものとします)

FIREに興味がないような人の方が、それだけ仕事や事業に充実感を持っているわけで、結果的にその方が社会へ提供する価値が大きくなりやすく、それ故収入が高くなって、少なくともFIへの道が近付く。

医療業界で考えてみても、例えば外科医でも「オペが好きすぎてオペができる限りいくらでもオペしていたい。自分のオペで疾患が治ったり何かが良くなって、患者さんに喜んでもらうのが何よりも生き甲斐。オペがもっと上手くなりたい。今日もオペのビデオ見て新たな方法研究するか」って人がいたとして、自分がオペしてもらうとしたら、やっぱりそういう人にオペしてもらいたいなと。「FIREするまで稼ぐ手段としてしょうがなくオペしてる」って人はやっぱ嫌ですよね。

そうするとどうしたってオペ好きな外科医の能力はどんどんアップしていき、評価も高まっていくだろうと。そして、結果的により多くの報酬を手にする確率が高い(仕事量や評価と報酬が必ずしも一致しないケースもありますが...)。

人間、元来は人に何かして喜んでもらえることが自分にとっての喜び、と感じるようにできている、ということを聞いたことがあります。

大富豪たちがこぞって寄付とかしだすのもそういうことなんだろうと(※一部は税制上のメリットを狙って、って部分もあるとは思いますが)

FIREできるほど誰かを喜ばせる能力のある人が、FIREした途端に人を喜ばせるという行為を奪われてしまうのはそれこそ耐え難いことなんじゃないかと思います。

逆に、「何が何でもできるだけ早くFIREしたい」って人で、社会への価値提供よりも稼ぐこと自体が目的化してしまうような場合は、かえってFIREしにくくなる、みたいなこともあるんじゃないかと。

(上記はあくまで一個人の所感です。もちろん、FIREしたい、という想いがFIREするまで働く原動力になるという部分や、例外はあると思いますし、異論は認めます)

そもそもなんでFIREに興味を持ったんだっけ

そもそも自分がなぜ、そしていつからFIREに興味を持つようになっていたのかということを考えてみると、大学にいた時に奴隷のように働いた経験があるので、その時に芽生えた「奴隷のような扱いをされたくない。自分の人生の主導権を自分で持ちたい」という気持ちが、いつの間にか「働きたくない」にすり替わっていたんじゃないかと思います。

振り返ってみると「仕事=苦」の状態だと、このような思考回路に陥ってしまうケースはあるのかな、と。

そう考えると、「じゃあ無理して急いでFIREする必要ないじゃん」ってなって、急に楽になりました。

自分なりの最適解を模索する

「働き続けることが決まったことでかえって楽になる」というこれまた逆説的な現象ですが、自分の心の中で観測された事実でありました。自由のために欲していたFIREがいつの間にか心の重荷になっていたのかもしれません。不思議なものです。

だから、要はバランスの問題なんだろうな、とも思います。

将来的に今より働く時間は減らしたいけど、かといってゼロにはしたくない。
何となくですが、自分には週1〜3くらいが合っているんじゃないかと。

どのくらいがちょうどいいかは、実際にそういう生活になった段階で探っていけばいいと思っています。

FIREの権利を得た上で、RE(早期引退)はせずに自分のペースで、働きたいように働く、これが今の自分にとっては理想のように思えます。

それに、もしやっぱり考えが変わったら、せっかく働かなくてもいい権利を持っているわけですから、その時は休むなり調整をすればいいだけですし。

あとは、どこかに雇われるという形式をとる場合は、職場で理不尽なことがあったり、理念に賛同できないようなことがあったら、お金の心配はないので、すぐに辞めればいいわけですしね。(※すぐにと言っても、少し前には言う必要はあるかと思いますが)

というわけで、FIREのREの部分は、「働くこと自体を辞める」ってわけではなくて、「勤務先や会社から卒業する権利」ってのをどっかで聞いたことがありますが、確かにその方が正確かなと。働きたいように働くことまで辞める必要はない。FIREはあくまで権利。権利を保有した上でその権利を行使しないのも一つの選択。

また、働き続けるということを考えると、金融資本への投資だけでなく、人的資本への投資も大事、ということを再確認した次第です。

今回考えてきたようなことを考えるのも、FIREを目指し始めた人が必ず通る通過儀礼みたいなものなのかな、とも思います。

ただ、やりがい搾取には注意。特に医療者の方は。

そんなこんなで今日のところは以上。
思いの外長くなってしまいました。

もしサポートしていただける方がいらしたら、励みになります。













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?