感情の揺れ動く場所

人の心が動く場所。それぞれの形はあるけれど多くは芸術的なものに触れている時間や場所、空気の中であると思う。
絵や音楽が主だろう。例えで絵を出してみる。
自分のつくった絵や立体作品を講評してもらう会があったなら、肩に札を垂らした先生に話しかけ、自身の作品について話し合い、教授し場合によっては享受する。

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前にいる生徒は先生と作品についての話をしている。自分の後ろには少しだけ列ができていた。講評を待っているのである。前にいる生徒が講評が終わり、話しかけようとした矢先に1人の男が割り込み自分の生徒の講評を持ちかけた。もちろん先生は講評をしにいく。次に講評を受けるはずだった友人は泣いていた。
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優しすぎるという話をしたい訳じゃない。ただ、ただ彼女は自分の作品について先生と話したかったという純粋無垢な感情でそこにいた。けれどひとつのイレギュラーが邪魔をした。私にとってはそのイレギュラーが腹立たしくてならなかった。まだコンビニで並んでいる時に割り込まれる方が10倍ぐらいはましな気がした。人が感情を右顧左眄させる。ひとつ、またひとつ作品を見ている。様々な感情が色や音になってたゆたっている場。その場所で、作品から得た感情に浸る隙も与えずに壊してくる。どうしたら教育する立場の人がそうやって大人になりきってしまうのか。最近大人の定義が分からない。難しいことを言えば、視野が広ければ、知が多ければそれで大人なのか、子供と大人の違いは見た目だけに過ぎない気がしてならない。話はそれたけれど、高校生という子供でもなければ大人でもないような不安定で美しささえ感じる存在は何にも変え難い。そして感情の揺れ動く場において今回のようなイレギュラーが発生したら。マナーやルールとはなんのためにあるのだろうかと思う。ルールは守るべきものであり、マナーは守るものだと考える。マナーは特に、暗黙の了解という察知する力を必要とするものだから難しいことさえある。けれども、誰かを傷つけることはマナー違反にはならないだろうか。人の感情を、小さなガラスの破片で傷つけるような、感覚的であっても許し難い。少なくとも、こんなイレギュラーにはなりたくない。反面教師で生きていくしかないのだ。こういった存在は自分が何をしているかを理解していない。自分のことしか見えていないから。そういうものだと割り切る以上にない。話しかけて文句垂れてもいいけれど、それによりさらに感情を壊してしまえばまさに悪循環だろう。今はただ、ただ感情に身を任せて、怒り、泣き、悲しみ、誰かや自分自身に身を寄せて、また笑えばいいよ。

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