言葉を連ねるのも、夕飯を決めることも

高校生になってからというもの、周りからたくさんの刺激を受け、それなりの教養を身につけ、選んでいく世界という感覚が他人事ではなくなった。
移動教室先へ行くために足を運ぶタイミングやその行動自体に、数字じゃ表しきれないような無数の可能性の数々がどこか横行しているおかげで思考回路はままならない。
古来の人間が生み出した、人間にとっての大きな財産の割に大した力もない。そう思ってしまうのは我儘なのだろうか。期待なのだろうか。
少し脱線したが、要するに選択する事への意義を時折不安がってしまうことがある、ということ。

今日の夕飯は何にしよう。コンビニのカルボナーラがいい。お茶を沸かすのを忘れていた、ペットボトルのお茶でも買っておこう。買い物も終わったし店を出よう。足を踏み出す。夏の匂いがする。ただいま。先にご飯を食べてからお風呂にしよう。布団に入ろう。今日は疲れたな、明日も頑張ろう。

誰かの一部。どこかの誰か。もしくは私。貴方。
誰でもいい。私が不安がるのはその一部に存在する無数の可能性、選択である。
夕ご飯を選ぶ、ご飯を先に食べてその後にお風呂に入る。寝る。選択する事実のわかりやすいほどの例。
だけど夏の匂いは?一日を振り返る心情は?
私にとってはこれも選択のうちに過ぎない。
夏の匂いだと感じられるのは、過去の記憶もしくは今その瞬間が夏の噎せ返るような熱と水分を帯びた空気を纏うから。
だから夏の匂いだと思った。数ある言葉の中からそれを選んだ。
一日を振り返る心情もおなじ。今日はこんなことがあった、という経験則による心情。自分が選択し続けた記憶を振り返るという選択。どれも選択。これを悲しいと思ってしまうのは、寂しさ故なのか。
私にはまだよく分からない。

かのロミオとジュリエットでも有名なシェイクスピアの言葉にこんなものが存在する。
「Life is a series of choices.」
翻訳すると、人生は選択の連続である。といった内容。
私は幼い頃、この言葉に衝動的な衝撃を受けた。
人間の性なのか、勘なのかは分からないが、潜在的に理解していたものが、いざ思考するという状況になった時、鮮明かつ聡明に巡らせてきたというような感覚。
お決まりの流れをしている朝のニュース番組も、チャンネルを変えてしまえば全く知らない別のニュース番組や、バラエティに変わる。当たり前の事実だけど、それを選ぶのは自分自身であること。それに少し違和感と恐怖、不安を覚えた。
解釈は人それぞれだが、私にとっての「選択」とは「一人」
と同義だからだ。だって選ぶのはいつなんどきでも自分だろう。例え、友人や家族に選択肢を指図されようが、結局その選択肢を選ぶのも、違う選択肢を選ぶのも、自分自身。つまり私1人だけ。誰かに寄り添うことは出来ないし、寄り添ってもらえることも無い。
これほどまでに物悲しく、また寂しい感情にさせられしてしまう自分が時折嫌になる。誰かそばにいて欲しいのに、誰もいない。近くにいても、結局前を向けば今を生きている自分しかそこに居ないのだ。

私たちでない何かからの、私達への冒涜なのだろうか。決して神聖なものでもないけれど、私は私への冒涜だと受け取ってみたかった。ただ理由が欲しいだけなのだけれど。

答えのないこの世界において、理由や回答は私たちにとっての精神安定剤なるものだと思う。
可視化されればされるほど、ポリゴン数が高くなるほど、私たちはその作られた理由や回答に縋り付く。そうするしか自分の支えがないから。もちろん、理由や回答を求めないことだってある。でも私にとってそれは、ないものは仕方ないとどこかこの世界に諦めてしまった感覚がして、それこそ物悲しい。理由や回答を求める者よりも、寄り添い辛い気がしてならない。諦めてしまった感情に何かを伝えるにはそれ相応の力のある言葉や感情が必要だと知ってしまったから。これも選択してきたからわかることだった。可視化できない感情は、やはりどこか空虚で、だからこそ人間の命のように儚く美しいと称されてしまうのだろう。綺麗はいいものだとされているこの世界で。


文を連ねる才も無ければ、誰かのためではなく自分のために見える形にして、この荒波に表面上が世間のガワを被せてしまうこの文章を、特別推敲することもなく、食べ物を咀嚼するように感情や思考を忘れようとしている。これは今を生きている私への皮肉なんだろう。きっと。

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