日記を書き始めることにした

赤の他人が書いた日記に誰が興味を持つんだ、と思う。オナニーなら家でやればいいし、わざわざ大衆の面前に晒す必要性がない。戸田真琴に興奮するアラサー男性は永遠に6畳1Kの隅で小刻みに震えている方が良い。

確かに、今まで日記はiPhoneのメモ帳に、誰にも見られないXの鍵垢に、デスクの端に隠してある小さな紙の切れ端に書いてきた。誰にも見られないからそこはすべてリアルで、純度100%の悪意が書き殴られている。

ではなぜ、noteで日記を書くのか。ExplosionとExpressionという単語がある。これらにはそれぞれ、「表出」と「表現」といった日本語訳がたいてい添えられている。

自分しか見ることのできない日記は、完全な「表出」である。思考をアウトプットせずにはいられないだけなのだ。これはただのアウトプットであり、リアルであると思う。誰かに見せる前提がないので、文章が構造化されていなくても、矛盾していても、キレがなくても構わない。
ただそこに残すことができればそれで良い。

note上の日記はどうだろうか。これには「表出」と「表現」が混ざりあっている。他者に読まれる前提がある以上、誰がなんと言おうと「表現」である。「表出」がリアルならば、「表現」はフェイクである。他者の視点を考慮にいれる分、なるべく綺麗に、筋が通っていて、脚色された文章を書いてしまう。
一方で、俺は思考を書き殴らざるを得ない。「表出」しているのだ。それだけでは済まず、誰かに共感してもらいたいとか、俺の立派な考えを披露して称賛を得たいだとか、わずかばかりの承認欲求が、「表出」を「表現」に、「リアル」を「フェイク」に仕上げていく。
このnoteに書く日記は、リアルの皮を被ったフェイクである。

世の中で目に映るもののほとんどはリアルとフェイクが混じり合っている。
どんな音楽も、絵画も、ツイートだって他者の視点を潜在的に意識している。リアルとフェイクの合作だ。2012年、大学2年生の俺を救った大森靖子のアコギ一本で奏でた曲はリアルであり、フェイクである。
三島由紀夫がわざわざ公衆の面前で切腹したのは、そうするしかなかった「表出」と、その行動を他者に示したい「表現」が入り混じっているからである。本当にただ死にたかったのならば静かに自宅で首を吊れば良い。

だからここでは、リアル50%、フェイク50%の日記を書きたい。
そうするしかないほど鬱屈としているし、できれば少しばかりの承認欲を満たしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?