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リトル加藤

初noteなので日の出の写真を。

変わったタイトルですよね。僕の子どもとかそういうわけではないです。

「リトル加藤」とは、

自分の中に存在するもう1人の自分

です。内なる自我とでも言いましょうか。


多分、誰の心にもいると思います。その存在に気づいているかどうか、意識しているかどうかは人それぞれだと思いますが。

僕の中で「リトル加藤」とは、実在する「加藤」を監視する存在です。自分を客観視するもう1人の自分です。自分の意思決定に対して、外側から意見する存在。そこに「相手」がいるならその人の意見を取り入れてもいいでしょう。


想像してみてください。あなたは今急いで職場/学校に向かっています。このままでは遅刻です。目の前の信号は赤ですが、車は通っていません。周囲に人もいません。ここでは以下の選択肢が考えられると思います。
1.信号無視
2.信号は守って、その後急いで向かう
3.完全に諦めて遅刻を受け入れる

さぁ、あなたはどのように意思決定しますか?

誰も見ていないから、遅刻して怒られたくないから、それとも深く考えず呼吸をするかのごとく信号無視をしますか?

僕はこの思考が嫌いです。大嫌いです。罪悪感を感じますし、何よりも良くないと思っている「リトル加藤」を騙しているからです。

たかがそんなことと思うかもしれません。確かにほんの些細なことですし、それで人生が大きく変わるかというとそうではないでしょう。
その意思決定そのものが問題なのではなく、その意思決定をしてしまう自分、ひいては自分の哲学が問題なのです。


人は易きに流されます。堕落するのは簡単です。ここでの堕落とは安定、つまり現状維持も含みます。周囲が上昇している中の現状維持は堕落ですから。
易きに流される自分がいることを自覚しているからこそ、律する存在である「リトル加藤」が必要なのです。


「リトル加藤」とはすなわち、

「他者だけでなく過去の自分、未来の自分に誇れる現在の自分であるか」


ということです。


人は本当に困った時、辛い時、苦しい時、過去を思い出してそこから自信を見つけようとします。決してそれを未来に見出してはなりません。

では過去を振り返った時、あの時の信号無視が、あの時の怠惰が、あの時の嘘がちらついたらどうなるか?自信は崩れ落ちます。自分が信頼できないのです。良くないとわかっていながらもその行動をする意思決定をしたのですから。



いつ、どこで、何をするにしても自分自身に対して嘘偽りなく、誠実に生きる。

その指針こそが僕にとっては「リトル加藤」なのです。

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