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何のために親は子を育てるか

岸田秀の「ものぐさ精神分析」に同名のエッセイがある。
「人間の子育ては相当な重荷であり、各自がその意味を見出さねばならない」と書かれている。

俺は、子育てに煩わしさを感じる事がゼロではないものの、「何のために子を育てるか」について、全然迷わずはっきりと答えられる。

俺には色々と報われなかった想いがある。
疑問や不満を、大人に聞いてもらえなかった、報われなかった色んな場面がある。
それを息子とのやりとりのなかで、やり直させてもらっている。

昔大人に感じていた不満や、違和感、親にされた嫌だった言葉や扱い、その嫌だった事を、子供に引き継がない事ができるかを実験させてもらっている。
これは俺の自己満足といえば自己満足だ。でも別に自己満足以外のものなんて無いというスタンスなので、それが悪いとも言わない。

俺の選択により、少しでも息子に引き継ぐものがマシになれば、息子も少しは良くなり、そういう個人の集合である国や世界も少しマシになるかもしれないから、ここで投じる超小さな一石が別に無駄だとは思わない。

俺の自己満足と、世界・未来をマシにすることは連続的につながっている。そして息子が大きくなった時に答えは出る。

息子に質問された時どう答えるか。別にいちいち熟考して答えてるわけではない。その場でパッと答えている。
でもそこには選択がある。
自分が捨てずに持ってきた報われなかった想いが、息子との交流の、この一瞬の選択に影響を与えている。

報われなかった不満を持ち続けるよりは、捨ててしまってあっけらかんと生きられればそれわそれで楽なのは頭では分かっておれど、どうしてもそうやって生きていくことが出来ず、いろいろ報われなかった思いを俺は捨てないぞ忘れないぞと持ち続けて生きてきた。その一つ一つをすべて自覚している訳ではないけれど、息子との交流の中で、今俺は報われているのだと、何度となく感じてきた。これからも感じるはずだ。

寝室で絵本を読んでいる時、うつ伏せで本を読んでいる俺の背中に息子が乗っかってきて、ほっぺが俺の頬に触れる。
こんなにも無防備にくっついてくれてありがとうと思う。
想像の俺が一瞬息子の体に入る。無防備に親にペタ〜ってくっつけてよかったねと思う。
今思い出してもうれしくなる。
なんか色々辛いことあったけど報われたな、と思う。

昔大人から言って欲しかった事を、息子との関係でやり直せる。俺が守ってきたものが時を経て少しずつ報われていく。これは救いだ和解だ。
じーっと過去の一点に立ち止まって動かない何人もの俺が、やっと報われて和解し合流してくる。

俺は色々感覚が鋭敏なのと、家庭環境もあって、思春期の頃は特に色んな疑問で親とぶつかった。親に話が通じないので、親戚のおじちゃんに相談するも、いつもいつもお前の親も頑張っているんだし、となだめられた。

俺はなだめられることをよしとしなかった。
いや子供とか大人とか、頑張ってるとか頑張ってないとか関係なく、まず俺の言い分に興味を持って聞こうぜと。

だれが言ったかとか関係ない、内容、コンテンツに興味もて。
「常に内容にフォーカスせよ」という俺の倫理観はこういう経験から育ってきたはずだ。

将来、息子が大きくなり思春期になり、色々な疑問を持つだろう。俺に食ってかかってくる時もあろうと思う。
そういう時、すぐに誰かにヘルプを求めるのではなく、逃げずに正面から中心をずらさずに向き合えることができれば、俺はまた報われる。

なぜ人は生きているのか、生きなきゃならないのか?みたいな質問が来た時に、諭しなだめるのではなく、
「おれもよく分からん、俺も若い頃よく考えた。いや、30過ぎても考えてた、よく分からん。俺が考えなくなったのは、俺が鈍くなったからだ。だからお前の方が真剣にその問題に向き合ってるかもしれん。どんな感じか教えてくれ」
みたいなことをいうか言わんか分からんが、そういう心で話を聞ければ、そして話してもらえれば、俺はそれによってまた報われる。

だから俺は子育てを通じて報われている。報われ続け和解し続ける。

そうなのよ、、俺は和解するために子育てをさせてもらっているのだ。
"させてもらってる"ってのは無駄な謙譲じゃなくてホントにそう感じるのだ。これに関しては"させてもらっている"ってのがしっくり来る。

過去から動かなかった色々な俺が、息子の色んな成長場面を通じて和解し、手を取って歩きだし、また世界を生き直し始めている。
それはやたらといい方向での生き直しだ。

ありがとう。感謝します。
お前が生まれてきてくれて、俺らのとこに来てくれて、俺は本当にラッキーだ。

↓ おかね。。。おかねをください。