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明英戦争~第0次アヘン戦争~

超大国として君臨してきた清が、欧州の雄・イギリスと戦って惨敗したアヘン戦争。
この戦争は中国にとって恥辱の百年の始まりとなったことでも広く知られている。

しかし、この戦いは中華王朝にとって初めてのイギリスとの戦いではなかったのはご存じだろうか?

実はアヘン戦争からさかのぼること約二百年前の1636年、清の先代王朝・明とイギリスとの間で小規模ながら軍事衝突が発生していたのだ。

当時、北からは満州族に圧迫され、国内では農民蜂起が拡大してまさに内憂外患だった明。前世紀にスペインの無敵艦隊を破り、日の出の勢いだったイギリスにどのように立ち向かったのだろうか。

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戦争の背景

・当時の世界情勢

15世紀に始まったヨーロッパ人による大航海時代はポルトガルが先鞭をつけ、次いでスペイン、オランダ、そして最後にはイギリスがそれぞれ海上での覇権を握ることになるのだが、16世紀においていち早くアジアに進出し、明との交易を独占していたのは先行組のスペインとポルトガルだった。
だが17世紀になると情勢が一変する。

それまで覇権国だったスペインとポルトガルの没落が始まり、両国の縄張りだったインド洋や太平洋に、スペインから独立したオランダ、アルマダの海戦でスペインを破ったイギリスなどの新興勢力が進出してきたのだ。

各地のポルトガル勢力を撃破しながら最初に明へやって来たのはオランダで、万暦三十二年(1604年)には広州に到達している。
イギリスはそれより三十年ほど遅く、崇禎八年(1935年)にようやく一隻の商船が通商を求めて明国の港に入ったが、ほとんど成果を上げることができなかった。

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・コーティーン協会の成立

明との貿易を望むイギリス商人たちは共同で私的交易グループ『コーティーン協会』を成立させ、イギリス王室に働きかけて時の国王チャールズ1世から東インド会社船団の活動地域以外での東方交易に対する特許状を取得。
協会はチャールズ1世からさらに1万ポンドの出資を受け、1636年に六隻の船団を組織。明に通商を求めるため、過去ホルムズ海峡でポルトガルを破った実績のある海軍大尉ジョン・ウェッデルを司令官として船団を派遣した。

この時代、ヨーロッパの商船は軍艦や海賊船も兼ねているのが当たり前で、ウェッデルの船団も大砲などで完全武装していたのは言うまでもない。

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戦闘の経過

・戦闘前
1637年、ウェッデルの船団は一年以上の航海を経て、中国大陸でのポルトガルの根拠地・マカオに到達する。
それは当初、明との貿易をほぼ独占していたマカオのポルトガル人の力を借りて交易を行おうとしていたからであり、当時新興国のオランダに攻勢をかけられていたポルトガル勢力も、イギリスと手を組んで対抗することを考慮していたために無理な頼みではないと考えられた。

だが、ポルトガル側は明国との交易の利益まで分け合うことは望んでいなかったため、イギリスと明との接触を妨害。
そのため、ウェッデルは直接明当局と交渉しようと、7月末広州に向けて出港した。

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・戦闘開始

8月8日、ウェッデル率いるイギリス船団は偵察を繰り返しながら慎重に珠江に入り、獅子洋河口東岸の亜娘鞋島(現・威遠島)付近に接近して停泊。
亜娘鞋島は広州への玄関口に位置する要衝で、明軍によって砲台が設けられており、そこではこれより以前から船団の動きを警戒していた。

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8月12日、亜娘鞋島の砲台は我慢の限界に達したらしく、勝手に居座り続ける招かれざる客・イギリス船団に向けて警告の砲撃を開始。
だがウェッデルはひるむことなく船のマストに軍旗を上げて砲台の明軍を挑発した上、指揮下の船団に攻撃を命令、砲撃戦が始まった。

この最初の戦闘では大砲の運用に長けたイギリス側に軍配が上がり、砲台の明軍は逃走。
イギリス船団は水兵を上陸させて砲台を占領するや、明の軍旗を降ろしてイギリス国王の軍旗を掲げ、戦利品として放棄された大砲35門を奪う。
さらに勢いに乗って周辺一帯で略奪行為を働き始めた。

完全に海賊モードになったわけである。

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事態を重く見た広州の明当局者はポルトガル人通訳のパウロ・ノレッティを派遣、イギリス側との交渉に当たらせた。

第一回目の交渉の席上で、パウロは独断で大砲を返してポルトガル人と同じく税を納めれば貿易を許すと伝えたため、ウェッデルはすぐさま交易を行おうと商人二人にスペイン銀貨22000レアル、日本銀貨二箱分を持たせてパウロと共に広州へ赴かせた。

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そして、イギリス側は要求通り奪った大砲を返したが、ここで双方の見解に行き違いが生じ始めていたのには気づいていない。

明側では、責任者である広州総兵の陳謙が最初のうちこそイギリス側の通商を認めるそぶりを見せていたが、上役の広西巡撫の鄭茂華や海道副使の鄭覲光は明らかな主権の侵害だと激怒しており、イギリス人を追い払うよう陳謙に圧力をかけていたからだ。
当然の反応である。

上からの圧力に屈した陳謙は再びパウロを派遣、鄭覲光と連名でイギリス人に退去するよう勧告せよと命じた。

しかし、パウロがここでまたしても明側の意向を捻じ曲げて、税さえ払えば貿易を許すとウェッデルに伝えたため、事態はより複雑になる。
パウロの言葉を鵜呑みにして通商ができると思い込んでいるイギリス側と、それを本気で追い払いたい明側との思惑の違いは致命的で、衝突は時間の問題となっていった。

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9月10日、ついに明が行動を起こす。三隻の戦闘艦が退去しようとしないイギリス船団を奇襲し、火矢や火砲で攻撃を加えたのだ。
明軍は火をつけた廃船を流して火攻めにすることも企んでいたようだが、これは風向きが悪く失敗した。

さしものイギリス船団もこの猛攻に耐えられずに逃走したが、ウェッデルはこれに懲りる男ではなかった。

19日、お礼参りとばかりに珠江デルタの虎門地区を襲撃。船や集落に放火して略奪を働くなどの大暴れ。
さらに21日には亜娘鞋島を再び攻撃して砲台を破壊。他にも明船を一隻焼き払った。

談判

ここまで狼藉を働いておきながら、ウェッデルは妥協点も探っており、攻撃の後でマカオのポルトガル人に明との調停の仲介も依頼していた。
明に来たのは戦争のためではなく、交易のためであることを忘れてはいなかったのだ。

もっとも、そのポルトガル人への依頼は「この事態の責任は、非協力的だった貴国の不手際に帰する」という恫喝を交えたものだったが、オランダの圧迫の下でイギリスとの関係まで悪化するのを望まないポルトガルも仲介を引き受けた。

明側もイギリスとのこれ以上の武力衝突は危険と判断し、ポルトガルを中間に立てた双方の談判が始まった。

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11月22日、交易を渇望するイギリス側は明の言い分を認め、略奪した物品の返還と賠償金として白銀2800両を支払うことに同意。

そして30日、ウェッデルは一連の事件を明に謝罪、交易を終えたら退去することを誓い、明側もそれ以上追及しないことで合意に達した。

莫大な賠償金を払うことを余儀なくされたとはいえ、少なくともお目当ての交易を行うことができたイギリス船団は、その年のうちに手に入れた明の商品を積んで帰国の途に就いた。

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その後

イギリスは優勢に戦いを進めながら、最終的に明側の要求を飲んで賠償を行ったために、この明英戦争は明の政治的勝利との見方もできる。

しかし、この武力衝突は明国の軍事力の脆弱さをイギリス人に印象付けてしまったようで、後にイギリスは海南島を奪うことすら計画したこともあった。

未知の蛮夷であるイギリス相手にギリギリ面目を保った形の明だったが、この七年後の1644年、農民反乱軍の首領である李自成によって滅ぼされた。

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