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ひとつのもの

「音楽に政治を持ち込むな」のなかにある愚かさは、政治への忌避感だけではない。「音楽に政治を持ち込むな」を批判し、音楽に政治を持ち込んでなにが悪いと言っているひとが、音楽と政治を分けていることの愚かさもある。

音楽は政治そのものだし、政治は文化・芸術を含んだわたしたちの生活そのものだ。それらをことさらに分けて考える必要はない。もちろん、あらわれ方を見ればそれぞれは別の姿をしているものだ。同じ場所にあるものがあらわれ方によってそれぞれの姿をしているのだけど、元は同じ場所にある一体のものなのだ。
あたらしい社会運動の見え方を試行錯誤し奮闘しているひとたちが、しばしば同じようなことに陥っているよう思える。すこし目あたらしい姿をした社会運動をことさらに「これはもうアートだ」と讃えてみせているようなときに。社会運動への情動は、表現や意思表示がされたという次元ですでに、アートへの情動となんら変わらない。同じ場所から起こったものが表現の様態で、運動だアートだと分けられてきたのだ。だが、芸術が政治であるのと同じように、これらも同じものだと捉えていい。
それにしても、あたらしい社会運動に対して「これはもうアートだ」という言い方は、なんだかあまりにもアートを高い場所に鎮座させて、社会運動を卑下しすぎではないだろうか。分けなくていいものを分け、さらにそれらに序列をつくることなどもう辞めにしたい。全部が同じ場所から湧き上がるように生まれ、さまざまな姿を見せるのだ。

なかにはそういった視野を持たず、自分は「アートのみ」を相手にしているのだというアーティストもいるだろう。そんなものは放っておけばいい。それは、切り分けられるはずのないものを勝手に切り分けたと言い張り、捨て去ったものについては責任を持たないと言える幼稚さだ。

話を戻そう。ここまで書いたことが極端で、現実に即せばもうすこし後退するとして。いまは手法としてそれぞれからなにかを拝借し、アートな運動や、運動ぽいアートをやっている過渡期かもしれない。けれど、いずれなにもかも一緒くたになる。どうしてもそれを分けなければならない必要に迫られるのは、表現されたものを美術館や画廊に並べ、価値をつけ値札をつけなければならないひとたちだ。それは彼らに任せておけばいい。学問や経済の場ではそれでもいいのだろうと思う。すくなくともおれの知ったこっちゃない。

けれど路上ではもう、ひとつのものを目指そう。固定されていたように見えていた切り分けから、すべてを解放して。

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