見出し画像

始まりの場所

いま、おまえは何者だ?と問われたら、返すものがない。なにかを成し遂げて、あれをやったのが自分だとも言えなければ、わかりやすい社会的な立場があるわけでもない。名乗るときに伝えるべき肩書きなどない。半端な仕事をしてきただけで、誇れるものがあるわけではないし、この生き方を見てくれればそれがおれだ、と言えるようなものがあるわけでもない。
そうなると、あの親たちに育てられた息子が自分だ、と答えることがいまは一番すわりがよいように思える。あの親たちに育てられた中に、自分をかたちづくったものの始まりがあるに違いない。
では、あの親たちとは誰なのか。あの親たちも、世の中にわかりやすいなにかを成し遂げた人物などではない。中国地方の山間部のちいさな街で暮らし、生活するための職につき、子を育てた平凡なひとたちだ。
そう考えると、彼らも、その親たちに育てられた子だと言えるのかもしれない。どこまでも平凡で特筆することなどない、市井の生真面目なひとたちだ。
では、なにひとつそこに特異性がないのかと言えば、そんなことはない。ただしそれは、ごく個人的な、ごく身近な家族の間でだけ通用するような、そんな物語でしかない。
その物語が、自分を自分たらしめている。だからこそ、自分はあの親たちの子だとしか名乗れず、そのことに自分なりの正しさを、すわりの良さを感じてもいる。

父が隣県の国立大学に入学が決まり、旅立つという日の前夜。それは昭和27年の春のことなのだが、父の祖父が物陰に父を呼んで心配そうに質したのだという。
 ーーおまえは百姓にならず、家を出て大学へ行くということだが、それは役人になるためなのか? 田舎の百姓のせがれだった父が家を出るということは、百姓たちから見れば平凡なことではなかった。祖父がその時に、大学に進むことをそのまま役人になることと受け取り、そして恐れていたのには理由がある。
彼らの住む村は、中国山地の南側の裾野にあった。背後に標高1200mほどの周辺では一番に高い山があり、その南側の山裾に原野が広がっていた。村はその中にあった。強い局地風が吹くことで知られている場所だ。日本海側から狭い谷を駆け上がる風は、その谷の狭さから速度と強度を増し、山を越えて瀬戸内側の南の山裾を駆け下りる時には暴風へと姿を変えた。そのおろし風は、南側の裾野一帯にしばしば被害をもたらした。風の吹きおろす原野は、周辺の村にとっては自由に入れる土地だった。そこは山菜や薪の供給地でもあった。父の家族の住む村は「部落」だった。部落は、周辺の百姓たちの村の中にあって、不利な場所しか入会地として割り当てられなかったろう。そういう状況の中で、現金収入の少ない貧乏な部落の百姓たちは村に隣接する原野に自由に入り、生活の糧を得ていた。山や原野は、部落のものにも自由に自然のものを与えてくれた。
20世紀の初頭、村のそばにある原野は突然、県により接収されることとなる。そして、陸軍の演習場として使われ始める。原野は柵で囲われ、村々から切り離された。そして、原野に砲台が持ち込まれた。砲弾を遠い距離まで飛ばす演習が行われた。原野は戦車によって縦横に踏まれた。この接収は、旧帝国陸軍、そして占領軍、警察予備隊ー自衛隊と現在まで受け継がれている。
近隣の村のものは、陸軍の演習場になろうが、これまで通りしばしば柵を破って中に入った。そして、生活のために山のものを採り、自ら食料にしたり売って現金を得ていた。こどもたちは空薬莢を拾い鉄くずとして小遣いを稼いだりもした。時には不発弾に触れ指を飛ばすものもいたという。村のものたちは、軍隊の目を盗み原野を利用し続けた。官憲は普段はそれを咎めることはなかったのだけど、目立って儲けているものがあると、気まぐれのように、そして見せしめのように、それを取り締まった。父の祖父はそうして何度も警察に引き立てられ、牢屋でひと晩を過ごすことを余儀なくされた。
祖父は、役人や警察は「部落」をいじめてきた連中だと捉えていた。そのことのどこに間違いがあるだろうか。部落はいじめられてきた。世の中から差別されてきた。そして役人たちはそれを率先して行っていた。祖父はその感覚を身体に染みこませるようにして、生きた。
祖父から見れば、上の学校に進むことは、百姓ではないなにか「偉い」ひとになろうとしていることを意味していた。そして、自分の孫が、自分たちをいじめ抜いてきた偉い役人になるのではないかという疑念を持ちながら、その出立の前の夜まで、それを質せないままでいたのだ。たずねられた父は、そうではないと答えた。
 ーー部落のこどもたちは、学問を受ける機会もない。差別に抗うためにも、こどもたちは満足な教育を受ける必要がある。自分は大学に行き、そのための教師になりたいのだ。それを聞いた祖父は、涙を流し、そうだったのか、それなら安心だと答えたという。祖父は孫のゆくさきを心配し、恐れてもいた。恐れからそのことをいままで言い出せないでいた。自分たちをいじめた役人になるのではないと聞き、安心した祖父の様子を語るとき、父も言葉を詰まらせる。出立の前の夜までそれを切り出せないでいた、父の祖父の心情を、いま自分は考えている。
百姓になることを選ばず、学問で身を立てることを、部落の百姓のせがれながら父は選んだ。父の母は、百姓の合間に山に入り花を採り、それを行商して父の学業を支えた。

学業に進んだことがことさらに優位なことだと言いたいわけではない。部落のひとたち、それぞれが、その置かれた状況の中で生きてきた。それはどれも特別に尊いわけでも卑しいわけでもない。そのときをそれぞれが生きてきたのだ。ただ、家族の内だけで通じる特異性がこの物語の中にはある。だから、おまえは何者だ?と問われたら、この物語を思い出す。
父に育てられた自分にとっては、この物語の夜のあたりに、いまの自分につながる「始まり」があると考えている。大げさに言えば、この物語が自分を自分たらしめている。それは、生きて会うことのなかった曾祖父の生き方ともひとつながりだ。学問とは縁のない部落の百姓として生きた彼とおれとは、ひとつの連続性の中にある。おまえは何者かと問われれば、その連続性に思いを巡らせないで済ますことはできない。
自分はなにものでもない。いまはただ自分が「始まった」あたりの場所を想い、そのことの背景をたよりに生きている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?