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LivesMatter

後出しじゃんけんのような話をして申し訳ないのだけど、Twitterで数日前、BLMの流れで#KoreanLivesMatterのタグが出てきたときに自分は乗らなかった。賛同しているしすべきとも思いながら、それでも乗らなかったのは、BLMがそれを改変されたくないと訴えていたことを知っていたからだった。なにしろAllLives~がもし無邪気に善意のつもりであったとしても、それは単なるガスライティングのように機能する。そして実際には、善意ではなくWhiteLivesMatterと同程度のハラスメントとして使われていた。BLMが、他のLivesMatterにナイーヴになるのは当然だと感じていた。
そのようなことから、もし、他の差別問題が~LivesMatterを使ったとき、運動の簒奪という言い方は大げさかもしれないけれど、BLM当初からの主張を弱めてしまう危惧は理解できた。BLM当初からの主張とは、黒人の命が粗末に扱われてきたことへの抗議だ。人間性を奪われてきた歴史そのものへの抗議だ。他のマイノリティが~LivesMatterを掲げるなら、その意図がなくとも、黒人の命を粗末に扱うなという抗議の「黒人の命」という部分を消し去ってしまう。そのことは、結果的にこれまで黒人の命を奪ってきたものと同じように機能してしまう。そういう危惧だ。
KoreanLives~タグを強く批判するつもりもなかった。その想いは同じくしているつもりだった。ただ、このような経緯から自分は書かないと考えていただけだった。

また、その理由に加えて、日本ローカルでの反差別の難しさを感じていたこともある。渋谷のBLMマーチの前後に、Twitterで、あるいは現場で掲げられた(少数だけれど)プラカードの文言で、それを感じていた。そこには、きっと少なくとも次のような層が存在する。
  1)BLMを理解するためにローカルの問題に引きつけて考えてみよう(元から国内のその他差別問題について知っている)
  2)BLMを通してローカルの問題にも目を向けよう(国内のその他差別問題について知らなかった)
  3)BLM自体、アメリカだけにとどまる問題じゃない(国内にも黒人差別があることを知らなかった)
  4)BLMについて理解しているし、国内のその他の差別問題についても理解している
他にもあるかもしれないけれど、少なくともこの4つの層は存在していたと思う。そして、正直いってこれらが、みなさんのどのくらいの割合に分かれるのかがまるで分からなかった。それは自分のこれまでの認識の甘さでもあったと思う。まさか「日本国内に差別など存在しないのでは?」ということばに、あれほど出会うと思っていなかった。そんな当たり前のことを、いまさら?と訝しく思いながら、実際にそれが今の日本社会からの差別問題への反応だったのだ。かなりナイーヴにそのことを受け止めざるを得なかった。

このように、BLMと向き合ったひとたちの立ち位置についてこれほどバラツキがあるなら、そこから派生する事象に対しての理解にも、当然かなりの乖離が起こるはずだ。ひとつのタグが、どれだけの受け止め方をされるだろうかと思う。問題なのは、あたらしいタグが指し示しているものへの理解にとどまらず、そこから逆にたぐり寄せるかたちで出会うことになるBLMへの受け止めにさまざまな幅が生まれてしまうだろうことだ。それこそが、BLM自身が問題の本質を改変されることに持つ危惧と重なる。
BLMをきっかけにして、他の差別問題も話題にされることは当然のことと思う。ただ、タグは~LivesMatterを避けた方がよかったのだろうと、いま思っている。実際に併用して別のタグが生まれてはいるようだ。ただどうしてもそれは、もう後付けにしか見えなくて、ちょっと遅かったなと感じている。イシューを絞ったタグはこれまでもあった。例えば最近のでいえば、#東京都は差別をやめて朝鮮人犠牲者追悼式典に占有許可を出せ、などだ。そして法務省の黄色いあれをそのまま使った #ヘイトスピーチ許さない などは、そのままほとんど在日朝鮮人差別を糾弾するために使われてきたと思う。そう考えると、今のタイミングで、KoreanLives~やその他のタグが大きい意味でつくられているのは、日本国内での差別の実態に気づいていなかったひとがそれだけ大勢いたことの証左なのかもしれない。そんな気もしている。

自分がタグを使うことを躊躇した理由がもうひとつある。それは、気づいたらもう自分のTLにはかなり流れていたのだけど、誰がそれを始めたのかが分からなかったからだった。考えてみればおかしな話だとは思う。反差別のカウンターとは、当事者である必要などない、それどころかマジョリティこそが発話しなければならない、と考えてきたはずなのに、そのときの自分は、KoreanLives~が、当事者である在日の誰かによって始められたかどうかを気にしていたのだ。いまから考えると、その理由がなんとなく分かる。きっとそのとき自分は、このタグを始めたのが当事者であるならば、BLMへの簒奪の度合いが低いと感じていたのだ。その感じ方にどれだけ正当性があるのか、分からない。論理的にではなく感覚として、もし当事者が始めたのならBLMから赦される度合いが大きいと、いまでも思う。
これらの言葉の使い方に絶対はない。文脈のなかで判断せざるを得ない。そして、文脈のなかには常にAllLives~の棘が刺さっていた。そう考えている。

追記すると、JapaneseLivesの醜悪さをみなさんが飯テロで攪乱したことは、たのしませてもらった。タルサでのトランプ集会をトロールたちのプロテストが台無しにした直後だったし。でも、上記のような経緯があったから、いいねはしたけど、RTも自分からのツイートもしなかった。
このように自分のなかでは、原則論(のようなもの)に従うことがしばしば起こる。それで実のところ、そのことに少々迷ってる。迷いながら感覚的にどうするか判断している。こういう原則論は「得てしてヘサい」と自分でも思ってる。だからこそ迷うのだ。だってヘサいのってダサいもん。ただどうしても理屈で説明できず、やむを得ず肌感覚に頼り、ヘサい方を選ぶこともある。

自分が感覚的に思った、タグを始めたのが当事者か云々という部分は、もうすこし考えてみたい。それでなにが担保できるのか。どうか。

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