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名もなき引力①

「君の文章はどうも、真面目すぎやしないかね。」

師であり尊敬すべき瀬川教授のその言葉に、大島は表情こそ変えなかったがその実ドキリとした。長身の己が胸内に日頃は比較的大人しく納まる心の臓が、大きく縦に揺れたようにさえ感じた。若き作家というものは自覚があれど他者から不足を指摘されることには不慣れなのだ。特に気にしていることに関しては。それを知ってか瀬川は申し訳なさそうに、それでも戸惑うこともなく続けた。

「僕としてはもう少し、君の他の面も見てみたいと思ってね。」

「他の、面…」

「そう。他人から求められることを意識した文章をね。」

教授は洒落物で有名だが、その名に違わぬ小物の品々。まるで彼のために誂えたかのような舶来のパイプをゆっくり燻らして、窓の外にふっと吹き出す。五月晴れの空に不似合いな紫煙が窓に纏ったのを確認するかのようにしばらくその辺を見て、そしてゆっくりこちらを向いて微笑んだ。

『あぁ、人たらしや。』

ぼんやりと思い知らされる。この瀬川という男は大学内でも人気の教授であり、またいくつもの名作を書き上げた現役の作家である。それでいて物腰は低く、誰にでも公平で、学長から年寄りの清掃員にも分け隔てなく丁寧に挨拶をするようなひとだ。おまけに年の割は若々しく何処と無く雰囲気のある彼は、きっと女学校の教壇に立っても好かれることだろう。そういった謂れからだろうか、何処から沸いたのか「瀬川は実は好色だ」などという噂が流れている。大島は、日頃の瀬川からそのような気配は露ほども感じていない。その才能をやっかむ連中のでまかせに決まっていると、瀬川を崇める学生達も言う。
しかしそんは羨望と噂が渦巻く中で、瀬川は決して歩調を乱さない。まるで他人事のように無関心だ。大島はその瀬川の飄々とした姿、人間としての引力に引かれて書生をしていると言っても過言ではない。もちろん瀬川の才能は間違いなくずば抜けている。代表作の『土竜』に、文学界の古参にも認められた斬新なデビュー作の『穢れ』そして先日また受賞した『遊戯』。どれも飛ぶように売れている。
大島は、瀬川のひとを引き付ける引力に皆惹かれて、それで本を買うのだと感じていた。彼の引力の端くれが文章にまで現れていると。彼が綴る文には、活版印刷の印字にまるで魔力を注いだように、ただの文字の羅列でひとを縛るのだ。だからこそ大島はこうして、大阪で商売する両親に反対されても尚、貧乏学生として瀬川のもとで学んでいるのだった。

「だいたい、君はあまり寝ていないだろう?またアルバイトから大学へ来たね?」
「いえ、そんな…」
「寝不足では勉学も文学もままならないよ。」

図星だった。仕送りも無く、時折父に内緒で母が送ってくれるわずかや金では生活できないので、大島は毎日アルバイトをしている。映画館と夜中ずっと営業する喫茶店、そこでほとんど毎日働いている。眠るのは講義中か、アルバイトへ行くまでのほんの小一時間ほどだ。時々借りている下宿に帰るが、もう二日は帰っていない。つまり二日はまともに寝ていないということだ。
瀬川は困ったように笑うと、机から椅子を引きずって、大島の座るソファーの前に椅子を置き、そして座り直した。

「どうだろう大島君。ひとつ僕の自宅で住み込みというのは?」

「え?」

かねがね考えていたのだよ、と彼はニッコリと笑う。しかし大島には思ってもみない提案だった。

「君はアルバイトをいくつか掛け持ちしているそうだが、それを辞めて住み込みの書生として文学に集中する生活をしてみてはどうかな。」

大学へは僕の迎えの車で一緒に乗ればいいし、仕事は僕の大学での事務的な雑事や、あとは家の力仕事なんかを少し手伝ってくれればいい。寝食の世話はこちらがするから。ね?どうだろう。
なんて、ポンと簡単に言ってしまうが、この人は成人男性をひとり養うのに一体いくら掛かるのか想像出来ているのだろうか。いや、何より…。

「嬉しいですけど、そこまでして頂く理由が…」
「僕は、文学が生まれ変わる瞬間が見たいだけだよ。」

期待されるうちが花。ならば咲かせて散るまで愛でるべし。
瀬川の小説の何処かに書いてあった言葉だ。大島はただ頭を下げて、その足で大学構内の公衆電話へと掛けて行った。喫茶店と映画館のアルバイトは、予想外にいとも簡単に辞められた。

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