ツチヤタカユキ×立川吉笑「コンテニュー」(20年11月6日)

■演目
01、ふっかつの呪文(吉笑)
02、蔵番頭(吉笑)
03、無限大喜利
04、歩馬灯(吉笑)
05、ケチャップ・ロンリープラネット
06、粉状少女と、逃げる自販機
07、前前前世(吉笑)
08、ソー シャ ル ディ ス タン ス
09、親子酒(吉笑)
10、コンテニュー
11、乙の中の甲(吉笑)
12、続・ふっかつの呪文(吉笑)

■所感
ハガキ職人 ツチヤタカユキ × 企画屋 立川吉笑の新企画『コンテニュー』。
オードリーANNで一時期話題になり、数年前は書籍で、昨年は落語協会の新作応募で、数か月前はドキュメンタリー映像で、そしてファミ通の投稿等で、と定期的に話題になっているツチヤさん。各業界内の先頭を歩く逸材と一緒に会をやることで何か新しい枠組みや見え方を考える切欠を提示する吉笑さん。両者が組んだ時に何か面白いモノが観れる/体感出来るのではと、とりあえずチケットを確保。
企画自体の煽り映像や説明文章を全く読まず、会場に足を運んだ。

会場である座・高円寺2は客席を一つ空けてのキャパ半分体制。
吉笑さんの落語客、ツチヤタカユキさんのお笑い客、両方を押さえている客。男女及び年齢比率もバラバラだったので、背景が異なる客がバランス良く入っているという印象。もしかしたら落語客の比率が若干高かったかもしれない。
余談だが、演芸会もお笑いライブも共通点として、『自分、分かってますよ』風の客のマナーが大変宜しくない。こういうのに限って、会場内で大声で知人と話したり、公演中にペットボトル(しかも炭酸飲料の)を空けて音を鳴らしたり、平気でフリスクをシャカシャカしている。ここはオマエが普段生息する子供部屋じゃない。
閑話休題。

暗転から始まった「ふっかつのじゅもん1」で幕開け。
落語→幕間VTR→落語…… という組み合わせで、吉笑さんとツチヤさんが交互に発表するという形で会が進んでいく。
確認は出来ていないが、テーマ『コンテニュー』や吉笑さんの入門10周年等も絡めて、作り手の過去に扱った題材から現在へと徐々に作品が移っていっている印象があり、作り手のこれまでの遷移とこれからの展望を見せるような作りが面白かった。また最後の「ふっかつのじゅもん2」で不要なモノを極限まで削ぎ落して、復活なんて考えず、またレベル1から冒険をという決意表明のような流れもワクワクした。

吉笑さんの落語は「乙の中の甲」が面白かった。登場人物が2人しか出ていないはずなのに、その人物に“外と内”を作ることで世界を拡張。拡張された世界を行ったり来たりしながら、その世界自体が展開毎に拡張され、今語られている状況は虚実どちらなのか、頭の中をグルグルさせながら噺の世界に没頭した。単に一つのお題に対して角度を変えて回答を出し続ける単調な流れではなく、点と点が繋がり線となり、物語となる。構造の強さと展開の面白さに痺れた。あとは「親子酒」は構造がシッカリしていて安心して観ることが出来た。
ツチヤさんの幕間VTRは「ソーシャルディスタンス」が面白かった。吉笑さんのお馴染み“打率の低い、ときわ荘”でフックが掛かり、ソーシャルディスタンスが一般的ルールになった世界で起きるIFの積み重ね、そして雑で雑を煮〆たような画像の一歩踏み出した“もしも”が面白かった。あとは奇跡の手の展開も楽しかった。

一方で(私が勝手にそう思っている)大喜利的なコンテンツは総じてキツかった。
落語「蔵番頭」「前前前世」は、一つのお題に対して回答が徐々に大袈裟になる羅列で、一つ一つの点が線にならず唯々冗長。蔵番頭は番頭が蔵に入れたもの大喜利、前前前世は歴史のライバル大喜利。話の世界が広がらず、展開の意外さも少なく、サゲも弱い。お隣の明らかな落語客が睡眠を貪っている状況に胸が痛むと同時に、少しの共感を覚えてしまった。
幕間VTRは大喜利とポエムがキツかった。(おそらく意図的な)PPT習いたての大学生が作ったようなお題と回答の流れ、全く読めない短文の洪水が文字情報や音声情報は受け取ったが……勇気を持って言うが、伝わらないし、伝わったモノも面白くはない。

確かに自分で思い付く表現の組み合わせかと問われれば、答えはNO。
自分では一生頭に浮かばないだろう。ただ“自分では思い付かない” イコール 新鮮で面白いかは疑義を申し立てたい。兎角、作り手とされる方は“自分では思い付かない”に憧れを持ちすぎだと思うし、分からない観客を“この面白さが分からないのであれば、それで良い”とするのは金を取るプロがする仕事ではないと思う。伝えるを放棄した時点でプロ失格。伝える努力や工夫をしないことを“尖った”と表現するのも、その“尖った”笑いを理解出来ると嘯く連中の選民思想も不快。十中八九、そいつらも分かってない。『ズンドコベロンチョ』だ。
ただ不快な理由も自分の中では分かっていて、“尖った”笑いを受け取るアンテナ受信力が衰えている、作り手の伝えるを無視した熱量の成果物を受け止める自身の許容量が無くなっているということを実感させられるから。あと自分もお客として扱って欲しい、という図々しい欲求も有るのだと思う。
学生気分が抜けて、金を貰って仕事をして生活する経験が蓄積された結果なので“正しい”成長な気はするが少し寂しい気もする。歳を喰ったのだ。

着地点としては楽しかった、面白かった。熱量にも中てられた。
……けど、縁も所縁も無い学園祭の出し物と打ち上げを見せられているような疎外感を覚える会だった。“作り手が世間に対して大っぴらに推す”作り手は別のフィルターが幾重にかかっている、という事を再確認。
ただ、これだけの文字数書きたくなる会。次回があれば、確実にまた足を運ぶ。ただ(理解しきれない口惜しさ半分持ちながら)『新しいモノが見れるのでは』ではなく、受取り手の自分の感想が変わるのか/変わらないのかの確認に行く場。リトマス試験紙のような会として足を運びたい。
以上

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