第二句集の季節

 『いぶき』(編集・発行人 今井豊・中岡毅雄、二〇二〇・八)に「若手俳人と俳句を語る」という対談記事が掲載されている。大学生の日比谷虚俊・雪花菜と、同誌編集長の藤田翔青が語りあうというものだ。彼らのあまりに屈託のない発言や、むくむくとふくれた自信や、それゆえの危うさや、ときおり垣間見える自信のなさに、読みながらずっとはらはらしていた。

日比谷 好きな俳人を挙げるとしたら二人で、一人目が金子兜太。敬称、付けるべきか、ちょっと悩むところなんですけど、兜太で。なんでしょう、あんまり社会詠とかは好きじゃないんですけど。当然、兜太の社会詠もあんまり好きじゃないんですけど、すごい自由に言葉を使ってるなと思ってて。俳句に書かされてるとかっていうことは一切なくて、完全に俳句を使いこなしてるっていう感じがして、あんな風になれたらいいなと思いますし。

 兜太が「完全に俳句を使いこなしてる」か否かはともかく、日比谷が「俳句を使いこなしてる」という感覚に憧れているというのは、ここ十年くらいの若い俳句の書き手のありようそのままのようで、興味深いものがある。
 池田澄子が高校時代の佐藤文香の句〈夕立の一粒源氏物語〉について「俳句の主題にすれば先ずは失敗する青臭いもの、叫びたいもの、私の思いを訊いてくださいという煩わしいもの、謂わば若者のタマシイを、俳句作品としての完成のために、この高校生は既に手放し得た」と書き、同時に「少しさびしく少し苛立った覚えもある」と書いたのはもう十二年前の話だ(「序」『海藻標本』ふらんす堂、二〇〇八)。それからずいぶん時間が経って、現在の若手は池田のさびしさや苛立ちなどとはいっそう無縁の場所で書こうとしているようである。これは、僕を含めて俳句の書き手がこの十年でそれだけ堕落したということなのだろうか、それとも、池田のいうようなさびしさや苛立ちなどもはや不要な時代になったということなのだろうか。
 いずれにしても、彼らはいかに「俳句」を書くかと問うのであって、なぜ「俳句」なのかと問うことに関心がないようだ。―もっとも、こんなことはここ十年間に限らず何度も指摘されてきたことであって、いまさらこんな受け売りの言葉で彼らを評してみたところで、何にも言ってないに等しい。僕の関心はむしろ、なぜ「俳句」なのか、と問うことのない時代において、それでも彼らの書くもののなかから、俳句を書き続けるということの倫理を汲みあげることはできないのか、ということにある。
 少し前になるが、平成元年以降生まれの俳句愛好者たちが集まって東北で発行している『むじな』で、第七回石田波郷新人賞を受賞した大塚凱の発言を受けて浅川芳直がこんなことを書いていた。

 凱さんは「書く」派。俳句をテクスト(言葉の織物)ととらえるのだという。どういうことか。たとえば一般に、本当のことを詠んでいても、写生的な語彙を使わねば写生句と認められない。つまり、写生の行き方は先行するテクストによって内容が制約されている、だから書き方を工夫しよう、というわけ。
 それで凱さんは、写生的な言葉をもちいて観念的な句を書き、非写生的な語彙をつかって写生句を書く、という方法を自覚的に取るという。つまり先行するテクスト(句)をよく学び、写生的表現を非写生的内容にちょっとずらして書く、観念的表現を写生的内容にちょっとずらして書く。それがオリジナリティになっていく、というわけだ。ざっくり文体の工夫である。(略)
 私の行き方はあくまで素材の拡張、切り取り方、感じ方を新しくして、新しみがある句を開拓するほかないという行き方。(略)
 こういう言い方は、ひょっとすると、若手では異端的かもしれない。つまり、文体、叙法の新しさを意図的に求める問題意識に乗っかれないのだ。私の場合はどうも、リズムとか叙法の工夫を内容に先行させると、言葉がギクシャクして句が荒れてしまう。俳句の骨法の探求で新しいものを掘り当てるのもよろし、私は感受性と直感で素材を深化できたほうが楽しいタイプというだけのことである。(「新しい俳句を詠むために……」『むじな』二〇一九・一一)

 大塚の方法は写生句へのメタ的なまなざしを前提として成立する。そして浅川が「文体の工夫」というように、なぜ写生句/非写生句を書くのか、という問いは据え置いたまま、文体の工夫の実践―いわば俳句形式の「使いこなし」―がオリジナリティの担保となるのである。
 一方、興味深いのは、テクスト論を下敷きにしているとおぼしき方法をいぶかしむ浅川が、翻って、書き手としての自身の姿勢を選択するときに、「感受性」とか「直観」とかいった、人間の持つ素朴な秘めやかさのようなものへの憧れと接近していることである。テクスト論への反発がかつての作品論的なものへの先祖返り的なふるまいを招き寄せているようにも見えるし、あるいはまた、これを俳句表現史の文脈でながめるならば、「異端的」というよりも、(三好行雄に学んだ)川名大がいうところの「昭和俳句」的なものがゾンビ化して立ち現れているだけのようにも見える。いずれにせよ、浅川のこうした屈託のなさは何なのだろう。こうした書き手としての姿勢の差異について、私と彼とはタイプが違うのだ、という程度の言葉で語って恥じることのない浅川は、大塚や先の日比谷と―語る言葉の意匠のちがいこそあれ―俳句形式に対する根本的な感覚にさほど差はないように思う。
 先日発表された田中裕明賞の受賞作にも、これとどこか似たような印象があった。今年で十一回目を迎える田中裕明賞の受賞作は生駒大祐の『水界園丁』(港の人)である。第一回の受賞作は高柳克弘の『未踏』(ふらんす堂、二〇〇九)だった。第二句集『寒林』(ふらんす堂、二〇一六)においてドラマチックに自己演出をすることで、師である藤田湘子の初期の私詩的な抒情性にあふれた俳句の可能性を引き受けるかのようにふるまった高柳のその後を思えば、『未踏』に収められた〈ことごとく未踏なりけり冬の星〉という一句は、いかにも皮肉である。『未踏』以後の高柳は、「ことごとく未踏」どころか、「ことごとく既踏」であることを知りながら、同じ轍を見事に踏み尽くす野暮を、野暮とはいわせぬそぶりで演じ切ろうとしているように見えるからだ。
 池田のいうところの「若者のタマシイ」をメタ的に利用した高柳に始まり、約十年後の今日、「データベースの集積から生まれた誠実な結晶体」(青木亮人「俳句時評」『朝日新聞』二〇一九・九・二九)と評される『水界園丁』が新たに受賞したという出来事は、池田のさびしさや苛立ちが批評的な意味を失っていった十年だったような気がしてならない。思えば、昨年、彼らが集まって『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(現代俳句協会青年部編、ふらんす堂)を刊行したが(僕も執筆者の一人だった)、新興俳句とおよそ無縁な書き手に見えようが見えなかろうが、とにかくただ若いということだけをもって集まり、遂には一書を成してしまったというこの出来事もまた、じゅうぶんすぎるくらい示唆的であった。
 そういう彼らにとって、そしておそらく彼らの一人であるところの僕にとって、俳句を書くということにどんな意味があるのか、それはわからないけれど、ただ、こんなふうにいうことはできそうだ―すなわち、僕らはいつも第二句集しか書けない季節を生きている。
 なぜ「俳句」なのか、なんて問う必要はない。「俳句」はいつもそこにあって、いつも良き同伴者だったのだから。それでいいし、それ以上の問いでこの関係を脅かされたくはない。それはちょうど、まど・みちおの「ぞうさん」の歌詞そのものだ。

ぞうさん ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
ぞうさん ぞうさん
だあれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ

 自分の鼻が長いのは母親が長いからであり、その母親が好きなのだ、という全肯定で多幸感に満ちていて依存的な母子関係は、俳句形式とそれに携わる若手の姿とよく似ている気がする。池田がいくらさびしがったり苛立ったりしたところで、彼らが、いわゆる若書きと呼ばれるような痛ましさをわざわざ句にする必要性を感じないのもそれゆえではないのか。その意味で、僕らはいつも、痛々しくも美しい若書きを―いわば第一句集を―書くことができない。書けるのはいつも、少し余裕のある、俳句形式で書くことをすでに自明視しているかのような、そんな句である。誰かの影を慕うような、そして、真に第一句集を持ちえないゆえにかつての自分の影に心の底から怯えることもないような、そんな句である。
 では、彼らの句は読むに値しないのではないのか―そう、まさに読むに値しない、と僕は思う。そして、読むに値しないというその一点を持ってのみ、彼らの句は、かろうじて読むに値するものたりうるとも思う。

かなしみや枯木に鳥のよく見ゆる     生駒大祐
平日は偶々太き冬木の枝         同
雪解水に溶けゐるくれなゐを思へ     同
いつやらの季題を君としてしまふ     同
覚えつつ渚の秋を遠くゆく        同

 たとえば、『水界園丁』を読んでいると、昔の句を必死でコピーしたという感じがする。どこかで見たような句だが、若々しさは失われている。苦労の跡が滲んでいるだけに、ひどく痛ましい。これは若書きの句にある痛ましさとは違う。何をしようと、もう何もかも手遅れなのに。それでも書く。だから読むに値しない。そして、だからこそ、読むに値するのである。

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