山頭火とオウム真理教が必要だったあの頃の僕らについて

 七月六日に松本智津夫(麻原彰晃)を含めたオウム真理教の元幹部七名の死刑が執行された。そのなかには江里昭彦と同人誌「ジャム・セッション」を発行し拘置所内から俳句や文章を発信し続けていた中川智正もいる。死刑囚の俳句というと昨年病死した大道寺将司の遺稿集が今年に入って上梓されたのも記憶に新しい。中川や大道寺のことはすでに何度か書いてきたけれど、中川については近いうちにもう一度きちんと考えておきたい気がしている。
 他方で、この死刑執行の報道やオウム真理教にまつわるさまざまなコメントを読みながら、僕には、オウム的なるものが求められる社会的背景と、戦後数回にわたって生じた山頭火ブームにおけるそれとが、どこか似通っているような気がしてならなかった。
 個人的な話だけれど、俳句を始めてまもなく、自由律俳句にのめり込んでいた十代末頃(二〇〇二年前後)の僕は『層雲』を購読することをかなり真剣に考えていた。にもかかわらず山頭火の句をいまひとつ積極的に読む気になれなかったのは、いまから思えば、彼の句が『層雲』内はもちろん、ふだんは自由律俳句から距離を置いている作家たちからも高い評価を受けていること、それに加えて、いわゆる俳句の世界の「外側」にいるらしい人たちにもおおむね好評であるという文脈があったことがなんとなく嫌だったのである。この嫌悪感はたんに僕の天邪鬼な性格に起因するところもあるのだろうけれど、いずれにしても、山頭火の句がさまざまな立場の人々から妙に愛されていることが薄気味悪かったのはたしかである。
 だから僕は、その後も山頭火の句や文章そのものを敬遠しながら、その周囲をちらちらと観察してばかりいた。たとえば僕が読んでいたのは山頭火の『草木塔』ではなく、日下圭介の『山頭火 うしろすがたの殺人』(光文社、一九九〇)や川崎貴人の『山頭火事件帳』シリーズ(実業之日本社、二〇〇六)であったりした(そういえば昔山頭火の歌もあった気がしたので改めて調べてみたら、村田英雄がその名も「山頭火」という歌をうたっていた)。『山頭火事件帳』は山頭火が事件を解決していく風変わりな推理モノだが、こうした「珍品」まで出現するほど山頭火が好かれているのはどうしてなのだろう―僕の関心はまさにこの点にこそあったような気がする。
 山頭火ブームは戦後数回にわたって生じたが、木下信三によれば最初のブームは一九七一年から七三年ごろにかけて起こったという(「山頭火研究史周辺(上)」『山頭火全集』月報第二号、春陽堂書店、一九八六・七)。

 ブームはむろん当時の社会情勢に脈絡を持つもの。高度安定成長の経済政策による管理社会に対する拒否反応が生じ、いわば人間復権への願望が山頭火の漂泊生活に結節して共感をよんだもののようだ。山頭火の作品もさることながら、山頭火自身の生き方そのもの、一笠一杖にして捨身懸命の生命のありよう自体が、当時のがんじがらめの社会体制の中で、人間の回復という志向において、大きな共鳴を生んだものらしい。(前掲「山頭火研究史周辺(上)」)

 ここで木下がいう「人間復権への願望」とか「人間の回復という志向」とかいったものは、「オルタナティブな輝きや眩暈への希求」と言い換えてもいいかもしれない。宮台真司は、見田宗介の提示した図式を修正しつつ、一九四五年の敗戦以降の社会システムの意味論の変化が三つ段階で進展したと述べる。第一段階は六〇年代までの「〈秩序〉の時代」で、この段階では「現在の社会秩序が理想的なものと考えられ」るという。次の第二段階は「〈未来〉の時代」で、ここではむしろ「人間たちの秩序自体が悪」というモチーフが展開される。そして七〇年代半ばにこの「〈未来〉の時代」が終わると、第三の段階、すなわち自分らしい自分でいたいという欲求や実践(自己のホメオスタシス)に精を出す「〈自己〉の時代」が始まるという。

  「〈未来〉の時代」は〈ここではないどこか〉追求の時代でした。最初はキューバや北朝鮮など現実世界に〈ここではないどこか〉が探られ、60年代末期に挫折すると、今度は観念世界に〈ここではないどこか〉が探られました。それが政治の季節からアングラの季節へのシフトです。〈ここではないどこか〉追求の背景に〈こんなはずじゃなかった感〉がありました。輝きや眩暈を約束した戦後復興や高度経済成長や郊外化がもたらした期待外れです。
 期待が外れても願望は収まらない。そこからオルタナティブな輝きや眩暈を希求するカウンター文化やアングラ文化やドラッグ文化が生まれました。(「〈終わりなき日常〉が永久に終わらないのはなぜか」『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎、二〇一四)

 いってしまえば、一九七〇年代初めに山頭火が「発見」されたのは、句や文章から立ち上げられた「山頭火」像が、この期待外れの感じを埋め合わせてくれる「オルタナティブな輝きや眩暈」のひとつとして―それも実に手ごろで安全なそれとして―機能しえたからではなかっただろうか。たとえば第一次山頭火ブームのさなか、『週刊現代』はこのブームの一コマを次のように報じていた。

「山頭火の捨て身でアナーキーな感じを、毎日ネクタイつけて出勤するサラリーマンの姿に象徴される現代の人々に紹介しようと思った」(朝日新聞東京本社社会部・木村卓而氏)
 といってコラムに「孤底の詩」と題して書いたところ、山頭火とは何者か、どんな俳句をつくっているのか、本はどこの出版社から出ているのかという質問がぞくぞくと寄せられた。(「全国に〝山頭火〟ブーム拡大中」『週刊現代』一九七一・一一)

 ここに記録されているのは、高度経済成長を象徴するような「毎日ネクタイつけて出勤するサラリーマン」を救済する「捨て身でアナーキーな感じ」な消費物としての「山頭火」のありようである。同記事には上田都史の言葉も掲載されているが、上田は「私が山頭火の生き方にたいして感動するのは、金や物質に反発して放浪の旅に出ながらも、結局は酒と女を断つことができなかった、そこに人間山頭火を感じるからなんです」「山頭火の作品にばかり魅かれるのではなく、彼の生き方そのものに魅かれるのです」と答えている。たしかに山頭火の日記を読むと、彼がとりわけ酒を求め続け、それこそ眩暈の連続のような生活を送っているさまがうかがえる。ここで重要なのは、上田自身が「眩暈」を起こすような破滅的な生活をしているわけではなく、「眩暈」にまみれた「山頭火」に「感動する」という地点にあくまでふみとどまっているということである。ここには自らの生活を破綻させない程度の安全な「眩暈」もどきとしての「山頭火」を求める者の姿が垣間見える。
 そしてこうした「山頭火」消費は、山頭火自身の言葉によって免罪されていたところもあったのではないか。

 すぐれた俳句は―そのなかの僅かばかりをのぞいて―その作者の境涯を知らないでは十分に味はへないと思ふ、前書なしの句といふものはないともいへる、その前書とはその作者の生活である、生活といふ前書のない俳句はありえない、その生活の一部を文字として書き添へたのが、所謂前書である。(「行乞記」一九三〇・一二・八、『山頭火全集』第三巻、春陽堂書店、一九八六)

 これは山頭火の俳句観のうかがえる文章として知られているが、「彼の生き方そのものに魅かれる」上田のような読者は、この山頭火の言葉をふまえるなら、実にまっとうな読みかたをしているように見えてくる(余談だが、「結局は酒と女を断つことができなかった、そこに人間山頭火を感じる」という発言は、山頭火の言葉の宛先に「女」がいないことを示唆してしまっている点でも興味深い)。
 ところで、一九七四年生まれで「団塊ジュニア」世代にあたる大田俊寛は自らの青年期を振り返りつつ、一九七〇年代に生じた宗教ブームについて次のように述べている。

 第一次と第二次のブームが、信者に現世利益をもたらすこと、具体的には「貧・病・争」を解消することを主な目的としていたのに対して、一九七〇年代から八〇年代にかけて起こった第三次宗教ブームは、大きく性質を異にしていた。すなわち、経済成長がある程度達成され、生活上の基本的なニーズが満たされた上で、それを超えるような精神領域の探究が重視され始めたのである。物質文明から精神文明への大規模な転換が起こり、新しい時代が到来すると主張するこうした動きは、「ニューエイジ」思想と総称されている。この時期に登場した代表的な宗教団体は、GLA、阿含宗、幸福の科学、そしてオウム真理教などである。(「ニューエイジ思想の幻惑と幻滅」『1990年代論』大澤聡編著、河出書房新社、二〇一七)

 この時期の宗教ブームを第何次ととらえるかはひとまず置くとしても、オウム真理教についてこれまで多く発言してきた宮台もまた、この時期の宗教ブームが社会的には上昇できた人間が実存的な不全感や欠落感(こんなはずじゃなかった感)を埋め合わせるものとして求められたものであると指摘しているし(「ビデオニュースドットコム ニュース・コメンタリー」二〇一八・七・七配信、https://www.youtube.com/watch?v=rzv6PUvr7k8)、実際、オウム真理教の幹部に高学歴のいわゆるエリートがいたのは周知のことだ。そしてこうした不全感の果てに、自分らしい自分を維持するために現実をリセットしてしまおうとした短絡的な実践の一例が地下鉄サリン事件であったろう。
 新納紀美夫は一九七一年以降約十年おきに生じてきた山頭火ブームについて、「山頭火ブームは〝社会の揺れ〟に追従するがごとく浮上し、人間として生きるとはどういうことかを、今更のように問いかけてくる」と述べている(「村上護作『風の中ゆく』―「放下著」に生きた山頭火の劇的世界 演出視点にかえて」『演劇総合研究』日本大学芸術学部演劇学科、一九九〇)。だがここでより注目しておきたいのは、同じ文章で新納が執筆当時(一九九〇年頃)の時代の空気を「かつてない経済状況の真只中にあって、国全体がある種の警戒感におおわれているのを実感する」と記してもいたことだ。この「実感」が地下鉄サリン事件の五年前に書かれたものであることを思うと、新納の文章はまた違った見えかたもしてくるように思う。
 ようするに、一九七一年頃から一九九〇年代初頭にかけての三度にわたる山頭火ブームの発生時期は、大田のいう第三次宗教ブームの発生時期から地下鉄サリン事件(一九九五年)の手前までの時期にかなりの程度合致しているのである。そして、僕にはこれが偶然の合致であるとはとても思えない。もっとも、僕は、だから山頭火をもてはやすことは危険なのだ、などといいたいのではない。ただ、山頭火の言葉への欲望が高まるとき、その背景に何があるのかをふまえておくことで、新しい山頭火論も生まれてくるように思うし、さらにいえば、すでにある山頭火論の多くに共通するであろう致命的な欠陥も見えてくるような気がしている。たとえば、かつて〈銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく〉と、それこそ「毎日ネクタイつけて出勤するサラリーマンの姿」を詠んでいた金子兜太が、その後年にいたって『種田山頭火 漂泊の俳人』(講談社、一九七四)など、ある程度まとまった量の山頭火論を執筆したことは、金子自身の作家的な変遷としてのみとらえるべきではなく、金子にそのような変遷をもたらした戦後日本社会の問題と考えあわせることで、金子の山頭火論の可能性と限界とを見ることができるように思う。少なくとも、山頭火への賛辞に対する違和感とともに俳句を書き始めていた僕にとって、このような問題意識は捨て置くことなどとてもできないものだ。あるいはまた、地下鉄サリン事件後まもなく、まさにオウム信者たちが求めたところの「ハルマゲドン」以後の世界における人間のありようを物語るかのように展開されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が放送されたとき、僕は主人公の碇シンジと同年代の子どもだった(劇場版公開とともにこの作品が社会現象化した一九九七年を基点に考えるなら、当時一四歳の僕はちょうど同い年だったのであり、そうした同い年の少年としての自意識を僕はひそかに育んでもいたのである)。そのような僕にとって、宗教ブームと絡みあうようにして築かれてきた「山頭火」像に抗うことは、何よりも僕自身が少年期に何を見てきたのかをきちんと思い出すためにも必要なことである気がしてならないのである。

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