それは僕らのものではない ―高野ムツオの震災詠について―
高野ムツオが『あの時 俳句が生まれる瞬間』(朔出版)を上梓した。『語り継ぐいのちの俳句 3・11以後のまなざし』(朔出版、二〇一八)所収の第三章「震災詠一〇〇句 自句自解」を佐々木隆二の写真とともに再構成し、加筆修正したものである。収録された一〇〇句はいずれも『萬の翅』(角川学芸出版、二〇一三)『片翅』(邑書林、二〇一六)の収録句だ。
『あの時』を読み進めていくと、高野の震災詠とははたしてどこまで個人のいとなみとして行なわれたものであったのか、次第に疑問に思われてくる。
この句について高野は「ベランダから毎年見える微笑ましい光景」としての「園児たちの春の散歩」であるとし、「津波にさらわれた子供たちも、きっと、その列に加わっているに違いない」と記す。制作されたのは震災の翌年。すでに一〇年が経過し、当時この句に詠まれた生者としての園児たちは一〇代の若者になっていることだろう。一方で、「津波にさらわれた子供たち」は―。
自解をふまえるなら、この句が傷ましいのは、この句を読み返すたびに、「津波にさらわれた子供たち」の「魂」が詠まれた時点やこれを過去に自分が読んだ時点から物理的な時間が経過してしまっているのをいつも感じるからだろう。そして、死者と生者とに突然分断されてしまったということの取り返しのつかなさに、いつでも読み手を立ち戻らせるからだろう。この取り返しのつかなさは、かけがえのない対象を喪失したという悲哀にのみとどまるものではない。その悲哀はともすれば、言葉にできないほどの虚しさへと転じていく。
いわばこの句は、いつまでも明けることのない「喪」の時間へと読み手を引き込んでしまうのである。このような高野の仕事は、「津波にさらわれた子供たち」を我がこととしてとらえるようなまなざしから生まれたものではないだろうか。この句に限らず、『あの時』には高野個人を超えた主語によって詠まれたかのような句が散見される。
この自解に従うなら、この句は我が子の遺骨を抱いている父親を詠んだ句ということになる。しかし、この句自体はあたかも自分が遺骨を抱いているようにも読める。こうした高野の詠みかたは、ともすれば「娘からのクリスマスプレゼントを受け取った気がする」という父親の言葉の簒奪にもなりかねず、その意味ではきわめて危ういものだ。
しかしここにはむしろ、誰のために俳句を詠むのかという作家としての意志がうかがえる。父親の言葉を簒奪する危うさを押してでもなお高野がこのように詠むのは、高野にとってこうした言葉を拾いあげること、耳を澄ませることこそが、何より切実な問題であるからではないか。
高野は、この句は「正月過ぎの福島駅前のポスト」の底を想像したものだと記す。「葉書には、避難先の親戚、知人宛に混じって、この世にはない人の名や住所がしたためられているものもあったかもしれない」ともいう。届くことのかなわない無数の声に高野は耳を澄ませる。
逆にいえば、僕らのためになんか詠まないということ。今回僕が高野の震災詠を読み返して気づかされたのはそうした高野の意志であった。
そういえば僕は以前、次のように書いたことがあった。
高野の震災詠を初めて目にしたあのとき、僕らはそれを悲哀に満ちた「棄民」の美しい物語として消費してはいなかったか。安易に涙し安易に拍手を送ってはいなかったか。しかしそれから数年を経て、当時の高野の震災詠からいま改めて感じるのは、高野ははじめからそんな僕らのためになんか詠んでいなかったし、その俳句は今なお、決して僕らの慰みものになんかならないということであった。
たとえば高野の震災詠としてよく知られるこの句に、僕はずっと違和感があった。この句の持つ構図の見事さが、これが震災詠だとすれば妙に悪趣味ではないかと感じられたからである。そしてこれまで僕は、それは高野の側に問題があるのだとばかり考えていた。実をいえば、僕がこの句を見るたびに思い出していたのは、高山れおながかつて眞鍋呉夫の句について述べた一文だったのである。
「この句に描き出されている情景は現実の正確な描写と言ってもよいのに、読者にはむしろ装飾性の強い絵画を見せられたような感触が残る」という指摘は、〈車にも〉に対してもあてはまるものではあるまいか―。僕は、震災詠でありながらこのような典型的な美をも招き寄せるこの句に気味の悪さを感じていた。
しかし考えてみれば、これは何より読み手である僕に問題があったように思う。そして、これは決して僕だけに特有の問題ではないとも思う。たとえば〈車にも〉を読んだとき、僕らはここに詠みこまれている春の月をどのような月として想起するだろうか。二〇一一年三月一一日に実際に出た月は三日月だったらしい。もっとも、高野の自解によればこの句は三月一一日の夜ではなく数日後に見た「大きな春の月」だというから、もう少し欠けの少ない月だったはずである。しかしいずれにせよ、僕らがこの句からイメージするのはそうした月ではなく季語としての「春の月」ではないだろうか。それは、たとえば「秋の月はさやけきを賞で、春の月は朧なるを賞づ」という美意識とともにある、あの「春の月」である。
この「春の月」という言葉の地層を探れば、僕らはさらに、在原業平の〈月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして〉をはじめとする、「春の月」とそれを見上げてもの思いに耽る歌だとか、西行の〈願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃〉にも行き当たるだろう。「春の月」とはそのような僕らの記憶とともにある言葉である。
だが、僕らの記憶とはいったい誰の記憶なのか。
高野はこの句の自解で「千年以上前から、東北は中央権力から見捨てられている」と記している。「我ら」とは、そのように見捨てられた者としての多分にうらみつらみをも含み込んだ自負や矜持に対して自ら与えた名であろう。それはまた、「春の月」の記憶が形づくられていくまさにそのとき、その記憶を共有する者たちから「見捨てられ」た「我ら」の謂でもあろう。
思うに、〈車にも〉は、「我ら」ではありえない僕らが、このような歪みや分断を気にせずに読んだときにこそ、いっそう美しくなる性質を持っている句である。この句の「春の月」はあの日に実際に東北に出ていた月であってはいけない。「朧なる」月でければならない。もっといえば、東北があの日実際にどうだったかなど僕らにとって大きな問題ではない。そして、この浅ましい読み筋を受け入れることでこそ、僕らはこの句にいっそう凄絶な美しさを感受することができるのである。
考えてみれば、僕らはずっとそのようにして「我ら」なる者たちを「見捨て」てきたのであった。とすれば、この浅ましいふるまいは一朝一夕に身につけたものではない。
もっとも、高野に全く問題がないわけではない。見ようによっては、〈車にも〉の句における「春の月」の美しさを担保するために、高野は「中央権力」の「春の月」の記憶にすり寄っているようにも見えるからだ。実際、「我ら」を「見捨て」てきた者たちと迂闊にも融けあってしまうような、そうした自らの書き手としての迂闊さを知ってか知らずか、『あの時』には次のような記述もある。
(2021年11月記)
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