負けの色彩

 俳句について何か言うとき、「それ言ったら「負け」確定だよね」という言葉というものが、たしかにあるような気がする。たとえば「俳句が好き」「俳句はすごい」「俳句はおもしろい」「俳句は素晴らしい」「俳句を広めたい」といった類の言葉だ。前向きであったり手放しの肯定であったりするこうした言葉は、それが手放しであること自体に言葉としての強さの根拠があるから、どうしても楽観的な建てつけになってしまうので、言った途端に「負け」確定の印象がある。

 また、こうした「負け」の言葉を発している人に対する批判は、この楽観的な建てつけを指摘することが批判たりうるということに気づいていないダサさがあるので「負け」な気がする。

 これらとは別に、「俳句表現の可能性を真摯に追求する」「俳壇の力学にとらわれれてはいけない」といった類の「負け」もある。これは批判として正しすぎて、だから何なのだ、という気がするのである。こうした言葉はみんながもう知っていることを反復しているだけだから、実際のところ何も言っていないし、もしこの言葉を内実をもって提示できるのだとしたら、そんな立派な人がどうして俳句なんかにかかずらわっているのかという気にもなる。これもやはり「負け」っぽい感じがある。

 もう一つ、「負けるが勝ち」的な「負け」の言葉もある。高柳重信の評論を読んでいるうちに陶酔感を覚えるのはこの類の言葉の力だと思う。

 考えてみれば、俳句についての僕の考えはずっとこうした「負け」の言葉の逆張りにすぎなかった気がする。だとしたらずいぶんつまらない言葉遊びをしてきたものだと思う。「俳句が好きな人」「俳壇の力学にとらわれている人」になるのが嫌で、かといって「俳句表現の可能性を真摯に追求する人」はとてつもなくかっこいいゆえにそのかっこよさが胡散臭くて、じゃあどうすればいいんだろう、という寂しさがずっと僕にはあったように思う。そして、この寂しさの慰めにこの「負け」回避ゲームに執着してきただけなのかもしれない。

 最近、いろいろな事情でボランティアで俳句をつかったレクリエーションの講師をしている。レクリエーションだから、俳句に対する個人的な屈折は捨てて、とりあえず参加者がおもしろがってくれるようにということだけを考えて試行錯誤しているけれど、こうしたことに俳句を使って憚らない姿勢はもう「負け」な感じがする。けれど、これが(たとえば俳句表現に真摯に取り組んでいるような立派な人に)知られたらきっと良くないよなという恥ずかしさを抱えながら、それでも続けているうちに、「負け」の感覚のなかにまた違った色彩が見えてきた気がしている。

 神野紗希さんが昔、俳句甲子園だったかで、俳句は誰にでも開かれているといったようなことを発言していて、僕はこんな「負け」っぽい発言をする書き手になんかなるものかと思ったことがあった。でも、いま、レクリエーションを続けているうちに、たしかにそうかもしれないと感じることがある。俳句はたしかにいろんな人に開かれていて、いろんな人を受けとめてくれて、そして俳句はけっこうおもしろいようなのである。

 これは、少し前の自分なら、絶対に許せなかったような感覚だし、こうした感覚をどうすれば回避できるかということばかり考えていた気がする。ようするに僕は少し大人になって、少し堕落したということなのかもしれない。

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