尾崎放哉の「歩く」ー「歩行」の俳句史(4)ー

 尾崎放哉は鳥取、東京、大阪、京城、満洲、長崎、京都、兵庫、福井、香川など各地を転々として暮らした人だったから、自らの移動—とりわけ、身体的な移動の謂としての「歩く」ことにまつわる句や文章を多く遺しているのかと思ったが、実際にその句や随筆、書簡を読んでみると、むしろ歩かないことを希求した人だったようだ。

これでもう外に動かないでも死なれる

 終焉の地、小豆島の南郷庵で詠んだ句である。放哉は安住の地を求めて歩いてしまったのであって、さまよい歩くこと自体に意味を見出していたわけではなさそうである。
 放哉の生涯のありようを考えるうえで見過ごせないのは、その書簡の多さだろう。小玉石水は『尾崎放哉全集』(井上三喜夫編、彌生書房、昭和四七)に収録された放哉の書簡数を計算しているが、最後の二年間(大正一四~一五)は四七一通、このうち大正一五年のものは死までの四ヶ月間で一九一通にも達するという(『海へ放つ 尾崎放哉句伝』春秋社、平成六)。放哉は若い頃から多くの手紙を書いていたが、殊に、南郷庵で世俗との付き合いを断つようになって以降—さらには、病が進行し歩行が困難になってからは、郵便はコミュニケーションの手段として重要さを増していったようである。同じ日に同一人物に宛てて複数の書簡をしたためたことさえあった放哉について、小玉は「もう書簡を出すこと自体が、放哉にとってまごうかたなき孤独のボディ・ランゲージ」であったと述べる。
 こうした放哉の書簡に関する文章のひとつに、「「臨終の日」のハガキ」という藤原嘉久の小文がある(『尾崎放哉全集』附録)。藤原はこの小文において、放哉の書簡のなかに大正一五年四月七日付けで大分の消印のものがあることに注目している。この日は放哉の臨終の日であり、藤原は「病重い放哉が、死の二三日前に書いたけれども投函もできず、訪れたお遍路さん(たぶん九州の人)にことづけて、その人は船からあがり大分で投函したもの」と推測する。この手紙は「裸の会」代表の島丁哉にあてたものである。「裸の会」は大分県中津にあり『層雲』に属していたグループで、放哉とは句の選評を通じて交流を持っていた。同会とは南郷庵に住むようになってからの付き合いだから、実際に放哉が大分に出向くことはありえなかったはずで、その交流は毎日のように交わされた書簡を通じて行なわれていた。藤原によれば、臨終の日の消印のあるその葉書は、丁哉が「「裸の会」の句会の写真を送り、放哉に同人各位の名をあてさせ、あとで更めて氏名を知らせてやったものの返信」だという。

啓、実ニ、写真説明うれしかつた面白かつた、只、アンタには全く、……だまされた だまされたといふよりも、人魚でも喰つてるのぢやないかと、感慨深いく事、おくさんが定めし、うれしい事でせうなあ
放哉ハ(一字不明)実通りハゲ頭をかゝえて、
羨望羨望
匇匇  (『放哉全集』筑摩書房、平成一四)

 死の間際にあるはずの放哉が記した書簡の、その内容の他愛もなさに驚かされる。放哉は最後まで書簡を通じてこうした冗談をかわしていたのである。郵便によって可能になったこうした交流は、「外に動かないでも死なれる」放哉の生活に豊かさを与えるものであったように思われる。
 ところで、先の臨終の日の書簡の投函を某かに依頼していたように、放哉には、多くの人に歩いてもらうことでその生活が支えられていたところがある。実際、放哉の書いたものには、そうした意味での歩く者たちの姿がしばしば現れる。けれども、彼らのそうしたふるまいについて放哉自身がどう思っていたのかとなると、どこか曖昧模糊としているように感じる。もちろん、荻原井泉水や内島北朗のように詳しく書き残されている者もいるし、自ら言葉を発することのできた者もいる。しかし、放哉の近くにいてほとんど語られず、また自らも語ることのなかった者もいた。
 たとえば南郷庵の近所に住み、身動きのとれない放哉の世話をしていた南堀シゲは、そのような者の好例であろう。最晩年の放哉を厠まで背負って歩くこともあったシゲのことを、放哉はときたま書簡に書き残しているが、井泉水もまたシゲについて次のように書いている。

 北朗は、其時から此のおばさんを知つてゐるので、その後、放哉がいろいろ世話をかけた事などの礼を彼は云ふてゐた。おばさんも北朗に、彼が送つた湯呑の届いた時の事などを話した。それは大きな箱だつたので、湯呑のはいつてゐる事は葉書で知つてゐるものゝ、此中に幾つはいつてゐるのだらう、当てゝ見ろと、放哉はおばさんに冗談を云ふて、自分では二つかななどゝ云ひながら、其の厳密な包装を漸くほどいて、藁屑が出るのを手繰り出し手繰り出した末に、真中からたつた一つの湯壷が出て来たので、二人で大さう笑つたといふ事なのである。(「放哉を葬る」『層雲』大正一五・六~八)

 放哉の脇に、ほんのわずかにシゲの姿が記されているにすぎないが、僕は、放哉の書き残したどの文章よりもシゲの姿がいきいきと書かれていると思うし、そしてここに、放哉の作家としての限界があったようにも思う。

 自然、毎日朝から庵のなかにたつた一人切りで坐つて居る日が多いのであります。独居、無言、門外不出……他との交渉が少いだけそれだけに、庵そのものと私との間には、日一日と親交の度を加へて参ります。一本の柱に打ち込んである釘、一介の畳の上に落ちて居る塵と雖、私の眼から逃れ去ることは出来ませんのです。
 今暫くしますれば、庵と私と云ふものが、ピタリと一つになり切つてしまふ時が必ず参ることゝと信じて居ります。(「入庵雑記(五)風・灯」『層雲』大正一五・五)

 放哉は南郷庵での生活についてこんなふうに書く。ここには、自ら孤独の世界へと沈潜することで独自の世界を切り拓こうとした最晩年の放哉の姿がある。だが放哉のそばにあって彼のために幾度となく歩いていたはずのシゲはどこへ行ってしまったのだろう。「一本の柱に打ち込んである釘、一介の畳の上に落ちて居る塵と雖、私の眼から逃れ去ることは出来ません」と放哉は言うけれど、そのまなざしは自らの生活を「たつた一人切りで坐つて居る」と認識する放哉によって獲得されたものであり、それゆえ、シゲを視界から取りこぼしてしまうものだったのではあるまいか。放哉の追求が美しく切実なものであればあるほど、そのまなざしのなかからシゲの姿は抜け落ちてしまう。放哉の最晩年の精神のありようが、シゲの不在と引き換えに獲得されたものであることは見逃してはならないだろう。
 思えば、シゲ以上に語り落とされている者もいる。その最たる例が妻の薫であろう。放哉と薫とは大正一二年以来別居状態となるが、やがて大正一四年八月に南郷庵へと入った放哉は次のように記している。

私が、流転放浪の三ケ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て……そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様々に変形し、変色して見せてくれると云ふ事であります、勿論、其の変形、変色の底に流れて居る光りといふものを見逃がす事も出来ません。之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつが絶対に見られないことであります。私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧模糊たるものに憧憬れて、三年の間、瓢々乎として歩いて居たといふわけであります。(「入庵雑記(二)海・念仏」『層雲』大正一五・二)

 この直前には「母の慈愛」を「海がまた持つて居るやうに私には考へられる」ともある。放哉が海を好んだのは、それに「母の慈愛」と似たものを感じとっていたからだということになろう。でも、「母の慈愛」を求めて海辺をさまよい歩き、ついに南郷庵へと放哉が辿りつくまで、薫はどこをどう歩いていたのだろう。放哉が「庵と私と云ふものが、ピタリと一つになり切つてしまふ時が必ず参る事と信じて居ります」と、自らの生きかたを祈るように切々と書きつける一方で、同じ「入庵雑記」には薫についての記述は一行も存在しない。たとえばこういう事実について、どう考えたらいいのだろう。僕は、放哉は薫を嫌っていたのだとか、そういうことをいいたいのではない。好悪云々を言うなら、薫の母親が「精神的には決して別な放哉でもなく、また別な薫でもございませんでした」と書いているように(「彼等二人の事」『春の烟』岡垣益太郎編、湖の会、昭和五)、僕は、夫としての放哉の愛情は生涯にわたって変わることなく薫に注がれたのだと信じるものである。実際、放哉の年譜や書簡、家族や知人たちの回想録を読めば、わずかながら薫の生涯も見えてくるのである。とはいえ、放哉が痛みを抱えながらさまようように歩き続け、安息の地を見つけ、独自の精神世界を切り拓こうとしたまさにそのとき、もしも薫もまた彼女なりに誇りを持って歩いていたのだとしたら、その歩行が放哉とは対照的に、語ることも語られることもほとんどなかったという事実をどう考えたらいいのだろうか。
 僕らがもしも、薫がどこをどんなふうに歩いていたのかを知ろうとしたら、どうしても放哉に関する句や文を読まなければならない。僕らがそのような作業の中でわずかに目にする薫の歩行は、放哉の年譜のなかにあるそれであり、放哉の書簡のなかにあるそれであり、あるいは放哉に関する回想録の中にあるそれである。したがって薫の歩行はどうしても「放哉の妻」としての歩行として語られることが多いし、実際、薫のことを記した難波誠四郎の回想録でさえ、その題名が「放哉の妻」(前掲『春の烟』)だったのは偶然ではあるまい。
 僕らは薫の生の営みがいかなるものであったのかを—少なくとも放哉のそれに比べて—ほとんど知ることができない。彼女の生をかたちづくり、そこに価値を与えているものや、彼女がその生において誇りとしていたもののありようを、僕らはほとんど知らない。それにくわえて、時折知ることになる薫のエピソードが、放哉の妻としてさまざまに苦労を重ねていたというふうなものだったりするから、薫の生がほとんど語られることのないものであったという事実を前にすると、ついその「語られなさ」をそのまま薫の生の救われなさとして理解したくもなる。実際、帝大卒の男性で生前から名の知られていた俳人でもあった放哉に比べると、社会的に弱い立場にあった薫が、それゆえに語られることもなく、また彼女の語りに耳を傾ける者も比較的少なかったのだというふうに理解することは容易であろう。けれども、そんなふうに、たんなる社会的弱者の悲劇として薫の「語られなさ」を理解していいものだろうか。語られなかったということは、いってみれば、語りの外にあり続けることができたということでもある。薫は語られなかったことによって、偶然にも、薫を「放哉の妻」として語りがちな彼や彼女の語りから身をかわせたのであって、僕にはそのことが、薫にとって、自らの誇りを彼女自身が守り抜く余地を与えてくれる、ほとんど唯一の救いのようなものであったように思われてならない。
 薫には、放哉の死の直後、小豆島に駆けつけた際、周囲から放哉の妹だと勘違いされたにもかかわらず、そのまま妹として通してしまったというエピソードがある。薫と同じく島に駆けつけた井泉水は「放哉を葬る」(前掲)で放哉の「妹といふ人」に会ったと書いていて、薫のことをあきらかに語り間違えている。しかしこれは、薫が語り間違えられたのではなく、むしろ薫が語り間違えさせたのだと考えることができないだろうか。

また私は放哉氏がなくなられた時、小豆島で薫さんが妹だといふてゐられたことに就いて尋ねると、
『それは小豆島に第一番に馳せつけて来た時もう放哉の最後には間に合ひませんでした。島の人たちは、私がまだ妹とも何とも言はぬ先に妹さんといひますので、向ふの言ふまゝ妹となつてゐたまでゝ別に妻であることを憚りもせず、言ひもしませんでしたが、先生にも北朗さんにもそれで通つてしまつた訳です、ですから向ふで言はれるまゝになつてゐた方がよいのかも知れんと思つてゐたんです』
と話された。薫さんはいつも無口なのでその時それで通
つてしまつたのであらう。(水谷由蔵「島の一夜」『春の烟』前掲書)

 「語られなかった」ということは、「語らせなかった」ということでもありうるということ—薫のふるまいをそのように理解することで、僕は初めて薫の歩きのありようを考えるためのとば口に立つことができるような気がするし、そしてまたここに、いわば「放哉の妻」としての物語の外側を歩くことのできた薫のありようを想像する契機があるように思う。


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