「私的」のままではいられない―『天の川銀河発電所』感想走り書き―

 佐藤文香編著『天の川銀河発電所~Born after 1968~』(左右社)が刊行された。一九六八年生まれ以降の書き手によるアンソロジーである。二〇一〇年前後に相次いで出された邑書林の若手作家アンソロジー(『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』)と大きく異なるのは、収録作家が「おもしろい」「かっこいい」「かわいい」という三つに分類されていることと、佐藤が単独で編者を務めている点にあるだろう。掲載作家や掲載作品、あるいは先の三つの分類にはむろん賛否があろうと思う。ただいずれにせよ、僕が最も懸念するのは、これをうっかりして若手俳人のアンソロジーとしてのみ受け取ってしまい、結果として本書の提示する根深い問題にたどり着けないということが起こるのではないかということだ。

 誤解のないように言えば、本書は「もちろん」若手俳人のアンソロジーである。そのような意図を持って編集も刊行もされたはずだし、僕もそうした前提で本書を読んだ。しかし、もしもそれだけの本であるとするならば手抜かりが目立ちすぎているような気がする。たとえば、本書では収録作家のそれぞれについて対談ないしは佐藤の文章による解説が加えられているが、九堂夜想について佐藤は次のように記している。

 お経やおまじないの言葉というのは、わからなくても、唱えているとなんとなくわかる気がする。九堂夜想の俳句もそうだ。(略)わかったような何かを頼りに、九堂の俳句を楽しむ。

 この程度の読みかたで九堂の作家としてありようを解説できているとはとても思えない。もっとも、僕はここで佐藤の読み手としての力不足を批判したいのではない。このような無理な仕事を、それでもこなそうとしているところにこそ、僕は佐藤の意志がありありと窺えるように思うし、またその一方で、このような仕事を佐藤がこなさねばならないような状況の不幸を思うのである。

  僕は、『天の川銀河発電所』は「私的」なアンソロジーとして優れたものであると思う。実際、本書がまとまりをもった一冊の作品として読めるのは、佐藤の「俳句」観や選考基準が明確であるからだろう。ただ、こうした仕事を担うことを自らにとって重要な課題であると切実に考えることのできる者がさしあたってほかに見当たらないために、その「私的」というラベルが剥ぎ取られざるをえず、結果として本書が否応なしに「公共性」を帯びてしまわざるをえないことにこそ、不幸があると思う。ようするに、『天の川銀河発電所』が無条件で「若手俳人のアンソロジー」として流通してしまうような現状こそ、問題であったというべきではないだろうか。これをより僕やあなた自身の問題としてとらえ返すなら、本当に問うべきは、こうしたアンソロジーを編むことがなぜ佐藤にとって重大な命題となってしまったのかということではなかったか。『天の川銀河発電所』へのあらゆる賞賛も批判も、まずはこの問いから始まるべきであるような気がしてならない。

 本書は発売時にPVが制作されている。作詞は佐藤が手がけているが、そのなかにつぎのようなフレーズがある。

  ハイジンだなんて名乗りたくない
  廃人じゃない方のハイジンでとか
  言っときゃ少しは盛り上がるけど

 きっと「ハイジンだなんて名乗りたくない」というのは、佐藤の本音であろうと思う。佐藤のことを―敬意を込めて、あるいは非難の意味を込めて―「俳人」だと思わない者はいるだろうし、少なくとも僕は佐藤を「俳人」とは思わない。しかし、佐藤はそんな僕らの意志の届かないところで彼や彼女から「俳人」と自称することを求められてしまっているのではないのか。そしてそのことに佐藤は自覚的で、だから「俳人」と名のることを求めてくる彼や彼女に対して「廃人じゃない方のハイジンでとか/言っときゃ少しは盛り上がるけど」とかわせるくらいの身のこなしはじゅうぶんに心得ているのである。では、「俳人」と名乗らなければならないような状況に佐藤を追い込んでいるのは誰だったのか。「廃人じゃない方のハイジンでとか/言っときゃ少しは盛り上がるけど」という言葉のもつ屈折の角度は、本当は僕らが生み出したものではなかったか。

 「俳句を、よろしくお願いします」―これは、本書の「まえがき」と「あとがき」の末尾に佐藤が置いた言葉である。本書の帯にも貼り付いているからいやでも目につく。僕は、なぜ佐藤がまるですべての「俳人」を代表しているかのような態度をとっているのかわからなかった。だからはじめはひどくこの言葉が傲慢なものに見え、いらだたしさを感じもしたのである。しかし考えてみれば、これは痛々しい言葉だ。佐藤は本書で「今、俳句を読んでみるという選択は、アリだと思います」とも書く。いかにも「俳句」を知っている人らしいこの言葉は、しかし、その逆―俳句を読んでみるという選択はナシだ―を容易に想像させる。「俳句を読んでみるという選択はナシだ」という言葉は佐藤がこれまで少なからず見聞きしたものであったろう。僕もまた、俳句に対するこうしたそっけない態度は一度ならず経験してきたように思う。でも僕は、そんなとき、アンソロジーの刊行で答えたり「アリだ」とあえて書いたりすることに意味を感じなかったし、いまも感じない。でも僕のそういう態度が、本書を生んでしまったような気もする。僕は佐藤のようになりたくはないが、でも、そういう態度を続けることによって佐藤が引き受けなければならなくなった痛みはなかったか。

  書くときは基本ひとりで
  でも週末は句会で会えるよね
  無記名で一覧が配られても
  選ぶのは君の俳句

 PVの歌詞にはこんな部分もある。少なくともここには妙に「俳人」ぶった言葉はない。たんに俳句が好きで、俳句をしている君が好きなのだ、という素朴な告白である。佐藤はこんなふうに俳句と向き合っているのだろうか。とすれば、佐藤が「俳句を、よろしくお願いします」などと書かねばならない今日の状況が、僕にはいよいよ悲しいものに思われてならない。 

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