飯田蛇笏の「歩く」、龍太の「歩く」―「歩行」の俳句史(3)―

 飯田蛇笏には五冊の随筆集があるが、主に三十代から四十代にかけての作品を収めた『穢土寂光』(野田書房、昭和一一)はその第一冊目にあたる。比較的初期の随筆を収めた本書には、歩くさまを記述した箇所がしばしば現れる。

 草鞋の軽い足どりに蹴返さるる落葉の音が四辺の静かさを破ってひっきりなしに続いてゆく。朝露が裾一尺ばかりを湿して草鞋はだんだん重たくなってくる。(「茸をたずねる」)
 たまたま時季おくれの茸狩に出たりした帰りに、湿地を踏みあやまって、其処此処枯草の上を歩こうものなら、草鞋だけくらい湿地を窪ませたところへ山水が直ぐに溜って、草鞋を透す水気が冷々と感じられる。(「朴の落葉」)

 一読して気づくのは、蛇笏が自らの歩行を書くときに「歩く」という直接的な表現をあまり多く用いていないことである。そして印象に残るのは、「朴の落葉」に見られるように、「歩く」ことというよりは「踏む」こと—あるいは、足や足裏の感触にまつわる表現である。

 わが茅屋の近傍は比較的山桜に富む。屋をたちいでて一二町。畑中の其処此処に散在している古墳の上に立って展望するならば、四囲の山々、かならず山桜を点描せざるはない。(略)林間を漫歩するとき、地上の落葉が、履物に踏まれ蹴返されて、寂びた音をたてる。(「山桜」)
 弥生過ぎの雨後の好晴な山地。漫歩する日和下駄の歯が、僅に枯芝をむしりつつ土中へ喰い入りながら人を運ぶ時、人はさながら陶酔して、ゆらめきながら陽炎の中に呼吸するのである。(「地靄」)
 翌日、私は清太郎と、清太郎の兄と三人で、寒い朝日影をあびて火葬場へ歩いた。霜どけのぬかるみが靴の裏へべとべととねばりついた。(「襟止と歯」)

 そういえば蛇笏は尾崎放哉の「足のうら洗へば白くなる」や高浜虚子の「やゝ太き白き足袋はく病かな」を好意的に評価しているが、これは必ずしも偶然とはいえないような気がする(「現代俳句秀作の鑑賞」『現代俳句秀作の鑑賞』厚生閣、昭和一八、「高浜虚子の句を拾う」『近代句を語る』交蘭社、昭和一〇)。こうした足の感触への執着は後年の随筆においても見られるものだが、どちらかというと若いころの作品に目立つようである。蛇笏の随筆の表現に見られるこうしたほんのわずかな変化を思うとき、竹西寛子が蛇笏の随筆について述べた次の言葉もまた思い起こされる。

 随筆を読み継いでみて明らかなのは、最初のうちはとかく東京を、都会を意識して、好意的に、価値あるものとしてながめられがちであった生地の山水が、蛇笏の目に公平さが増すにつれて次第に山水そのものとしての姿で立つようになり、山水のリズムに蛇笏の生のリズムが合っていく、その変化である。(略)
 「環境の恵み」、「歩くことの恵み」を感謝する蛇笏は、生地の山水を讃仰するのではなく、目的のために鑑賞するのでもなく、おのずから山水に同化することでより大きな宇宙的存在となり、「無限の詩」を呼吸するにいたったのであろう。(「解説」『飯田蛇笏集成』第六巻、角川書店、平成七)

 若き日に学業のために上京し、高田蝶衣や中塚一碧楼らとともに早稲田吟社で交わりつつ、一方では若山牧水らと親交を結びながら新体詩や小説の執筆にも関心を傾けていたさなかの明治四二年、当時二四歳だった蛇笏は早稲田大学を中退し境川村に帰郷することになる。紅野敏郎は蛇笏の帰郷した時代について「自然主義文学の全盛期であるとともに、耽美派系のパンの会の全盛期でもあった」と述べ、さらに「だれしもがそのどちらかに、あるいはどちらにも鋭く反応し、共鳴し、そのただなかに突入してしまうような雰囲気が漂っていた」と指摘する(「解説」『飯田蛇笏集成』第七巻、角川書店、平成七)。とすれば、こうした状況に身をおいていた蛇笏が境川村にその身を移してから書いたとき、「最初のうちはとかく東京を、都会を意識し」たものになったのはむしろ自然なことだろう。
 しかしその一方で、初期に書かれた作品のなかにも、竹西のいうように「山水のリズムに蛇笏の生のリズムが合っていく」さまの窺えるものがある。

 日陰の充分に瀰漫した庭の面には白く乾びた地に迅速な歩みを見せて餌をあさる蟻の群が散らばって居る。その一つを昵っと見詰めていると、彼の姿がだんだん大きくなっていって黒々と鮮やかな体を運ぶにつれ、自分の心と彼の心と相通い、一挙一動自分の心と相平衡する。蟻が小石に登ろうとする時自分の心も石に登り、自分の心が石蕗の葉に引かかるとき蟻が忽ち石蕗の上に攀じ上ろうとした。(「峡中山盧のほとり」『穢土寂光』前掲書)

 蟻の歩きを見ているうちに、蛇笏には、いつしか自分の心が蟻のそれと同化したように感じられるようになる。蛇笏はまたこの随筆のなかで、「歩むともなく」山を逍遥する自らの姿を記している。軽い酔いに身を任せながら夢ともうつつともつかないまま山中を歩くさまを記した後で、「この山頂に青芝を敷いて臥そべっている時、自分の心は、郷土の山川になつかしみを持つことよりも、自分自身をおもうことよりも、人間を考えることよりも、実に、天地悠久の感を覚ゆることである」と述べる。山林を歩きながら自他の消失したような境地に至る蛇笏だが、この一文に「臥そべっている時」とあるのを見逃してはならないだろう。先の蟻への同化が「白く乾びた地」に足をつけて歩く者としての立場の共有を前提としていたように、山水への同化には山水との身体的な接触が不可欠であったにちがいない。そして、そのように考えるとき、蛇笏が歩く際に、「踏む」ことや足の感触に執着した理由も見えてきそうである。すなわち蛇笏にとって歩くことは、何か目的物に向けて身体を移動する動作の謂ではなく、山水と身体的に触れ合いながら、自らのリズムを山水のリズムに重ね合わせて行く所作の謂だったのではあるまいか。
 さらにいえば、このように歩く蛇笏であればこそ、ホトトギスの作家たちが行っていた武蔵野探勝に対して次のように述べていたわけも理解できそうである。

文化戦線第一線上の丸ビル高層建築の内部に、諸種の整備を果げつつ殆んど間隙を存せしめない、文人稀れに見るところの機関誌発行その他の行進ぶりであるその半面には、時に能舞台に本腰の所作をもってあらわれるほどな一種のゆとりが現存するのである。若干の脱線視せらるるおそれなきにしも非ずであるが、ホトトギスに綿々縷々たる武蔵野探勝のごときは、決して意味ないもので有り得ないことを観察の内にとり入れねば嘘である。(「高浜虚子句集「五百句」」『俳句文学の秋』人文書院、昭和一四)

 ここには東京の丸ビルに発行所を構える「ホトトギス」の半面のありよう(ゆとり)の表象として武蔵野探勝をとらえる蛇笏のまなざしがある。もってまわった言いかただが、蛇笏はここで、武蔵野探勝というふるまいに容易には与しえない自らの立場を示唆しているように見える。このまなざしを支えているものは足裏で山水のリズムをとらえながら日々を過ごしてきた者としての自負であったろう。

 ところで、蛇笏の息子である龍太の場合はどうだったか。試みに、「随想Ⅰ」、「随想Ⅱ」と銘打たれた『飯田龍太全集』の第三、四巻を繙くと、意外なことに「歩く」ことを記述した箇所を持つ作品がほとんど見当たらない。もちろん、どこそこへ出かけた折のことを記した文章はあるけれど、龍太は「歩く」ことそれ自体を記述するということをあまりしなかったのだろうか。それでも、全十巻からなる全集を通覧すれば「歩く」ことに関する記述をいくつか拾うことはできる。とりわけ注目すべきは龍太の代表句の一つである〈紺絣春月重く出でしかな〉の自解だろう。

 昭和二十六年春、食糧事情も一応安定したので、農耕を止め、甲府にある県の図書館に勤めることにした。バスの終点から三十分ほど歩いて坂道を帰る。大菩薩峠のある秩父山系と、富士山麓に抜ける御坂山系のほぼ中ほどの山の上に、橙色の春の満月がぬっと現れて、ひえびえとした空にポッカリと頭を出す。名残惜しげに山を離れるとやがていさぎよく中天に昇った。(『自選自解 飯田龍太句集』白凰社、昭和四三)

 〈紺絣〉の句の制作には、龍太三一歳の折の歩行が関わっているようだ。足裏の感触に執着する蛇笏とは異なり、そのまなざしは上方に向けられている。ちなみに、蛇笏は帰路を辿る自らの歩行を次のように書いている。

 或る時は甲府から一里半ばかりの上曾根という笛吹川の河畔で馬車を捨ててテクテクと一里ばかりの野径を辿って帰る。(略)
 薄暮がかった野径を爪先上がりにたどって居ると、板額坂という彼の女丈夫板額女が葬られた塚を横切る急坂へかかって来る。崖上の枯躑躅が頻りに夕風に揺れて居る上に遠い村落の灯がぼつりぼつり灯し出す。坂の上からふりかえると甲斐平が遠く一面に夕靄の薄色に包まれて、地上に低く濃い茶煙が曳きわたされ、上空連山の頂は各々の姿をはきと現わして後ろの夕空を一面の薄紅の色にそめなしている。この夕雲がまた見る見るうちに変化して最後に灰色に変わってゆく。足元の路上の石が殊に白く浮き立って見える傍に青麦を烈しく吹く夕風が紙巻をつけようとする燧火をしきりに打ち消す。こんな時又一句が生まれる。(「私自身の場合」『俳句道を行く』素人社書屋、昭和八)

 坂道を歩くことを「薄暮がかった野径を爪先上がりにたど」ると書くところがいかにも蛇笏らしいが、おもしろいのは、龍太のようにまなざしが上方へ行ったきりにならずに、ふり仰いだ視線を足元へと落としていることである。自らの生きる風土のありようを思うことと自らの足元を思うこととが、決して比喩ではなく、地続きのこととして蛇笏のうちにいきづいている。そして、このあたりに〈春の鳶寄りわかれては高みつつ〉の句を得る者と〈芋の露連山影を正しうす〉の句を得る者との間にある決定的な作家性の違いを見ることもできそうである。

 そういえば、龍太は〈手が見えて父が落葉の山歩く〉という句を残しているが、この句などは二人がそれぞれどのような身体感覚に執着していたのかを端的に示しているように思う。甲斐の山水と身体とを触れあわせ重ねあわせるように生きた蛇笏が、いわば「踏む」人であったとすれば、龍太はその山水を—あるいは、その山水に生きる者を—「見る」人であったのではあるまいか。 

 龍太に「蜂の巣」(『無数の目』角川書店、昭和四七)という随筆がある。新涼の頃、家に出来た足長蜂の巣を取り除こうと奮闘する蛇笏の姿を記したこの一文は、龍太の随筆のなかでも佳品の一つだと思う。

 素晴しい月明である。露が降りて、瓦がしっとりと湿り、十何間かあるばかでかい屋根全体が、漆を引いたように黒光りに輝いている。その中を真っ白な父の裸体が用心深く上ってゆく。(略)平蜘蛛のように屋根にはりついたまま、盛んにあたりを物色している。右手の蠅叩きが上がった。横に振った。と見る瞬間、拳大の黒い磈が宙に飛んで、瓦屋根をころころと落ちてくる。(略)蜂の姿は全く見えないが屋根にはりついた白い裸体をくっきりと月光に浮かべ、盛んに蠅叩きを振り廻している。

 「平蜘蛛のように」自らの白い裸体をべったりとはりつける蛇笏と、それをふり仰いで見ている龍太—ここには、「踏む」者と「見る」者との生のありようの美しい交錯がある。

※引用した蛇笏、龍太の文章の表記はそれぞれ『飯田蛇笏集成』(第一~七巻、角川書店、平成六~七)『飯田龍太全集』(第一~一〇巻、角川学芸出版、平成一七)によった。

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