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ニーチェの見ていた世界を覗く

ツァラトゥストラはこう言った(上)(下)を読んだ。かなりぶっ飛んだ内容なので読むのに時間がかかった。

「私はこの書で、これまでになかったような人類への大きな贈り物をした。何千年の未来へ響く声を持つこの書はおそよそこの世にある最高の書、真に高山の空気を漂わせた書であるばかりではなくー人間という事実そのものがこの書の恐ろしいほどはるか下方に横たわっているーそれはまた真理の奥底の豊かさから生まれた至深の書。つるべをおろせば必ず黄金と善意がいっぱいに汲み上げられてくる無尽蔵の泉である」

この書は、ニーチェ自身が上記のように自己評価している代表作だ。

ショーペンハウアーはキリスト教を「同情」の宗教と見た。ニーチェもその見方をついで、同情をキリスト教倫理の中心に置いている。

ニーチェはショーペンハウアーに感銘を受け、影響を受けているので、ショーペンハウアーの最大の後継者と言われる。ニーチェの神についての考え方だが、

善も悪も喜びも悲しみも我もなんじもーみなこの創造主の眼前に漂う多彩の煙であると思われた。創造主は自分自身から眼をそらそうとした。ーそこで彼らはこの世界を作ったのだ。
悩みと不可能ーそれが一切の世界の背後を作ったのだ。そして苦悩に沈湎する者だけが経験するあの束の間の幸福の妄想が、世界の背後を作り出したのだ。

自分から眼を逸らして陶酔の喜びにひたる避暑地として神の世界は作られたし、神の創造主は人間の苦悩に意味を与えることによって、他人を縛り付けてきたという。罪を背負って生きて行くという美徳を作り上げたのだ。*教会のことは最悪の怪物と言っている笑

ショーペンハウアーが示したような意思否定の道ではなく、むしろそうしたものに負けない強い肯定的な意思へと進んだと見るべきであろう。深刻な否定の極限に、深刻な肯定を求めた。深刻さも忘れるほどの肯定を。

ただ、「この世界は苦である」というショーペンハウアーの思想から、それを超えて光を掴もうという強い意志を感じることのできるのが興味深い思想。

わたしが愛するのは、おのれの徳を愛するものである。なぜなら徳は没落への意志であり、あこがれの矢であるから。

最初は何を言っているか全くわからなかったけども、よくよく読み返していくと、"人は自分を肯定することよりも、罪を背負って生きていくことを美徳としてしまった(特にキリスト教)ことに嫌悪している。そして、その世界を降りることを没落や破滅と捉え、自分を肯定し直して徳を作って行くことを愛したいというポジションなんだと捉えられるようになった。

精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。今精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるを得ない。
我が兄弟よ、あなたの思想と感情の背後には、強力な支配者、知られざる賢者が控えている。ーそれが本物の「おのれ」というものなのだ。あなたの身体の中に、彼は住んでいる。あなたの身体はかれなのだ。

ツァラトゥストラはこう言ったものを「超人」と読んでいるが、ヨーロッパのキリスト教がその力を失い、伝統的文化はそのために意味と価値の究極のものを見失うに至った。ここにニヒリズムの支配する世紀が到来し、人間は不安の霧の中を彷徨する。この人間に、その存在の意味を教えるものとして超人が求められると見ることができる。

勇気、冒険、不確かなもの、まだ誰も手をつけていないものへの喜び、ー要するに勇気こそは、人間の一切の先史学だと、私には思われる。人間は極めて原始的な、勇気ある動物どもに妬みを感じ、その全ての長所を奪い取った。こうして人間は初めてー人間になった。

神によって(主にキリスト教)、本来人が持つべき勇気を奪われて"人間"になってしまった。なので、作られた"人間"を没落・破壊して、勇気を取り戻し、超人になろう。というニーチェの意志は、真に人類の幸せを願った哲学者の叫びだったのだろうと思った。





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