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競争に疲れた人に染みる荘子の思想

マンガ老荘の思想を読んだ。老子と荘子についての本だが、これは現代の特に若い人たちが読んだら染み渡る思想なのではないかなぁと思った。

春秋戦国時代で乱戦だった中国は当時知識人を集めてはそれぞれの国力とするみたいなところがあった。そうなると知識人は各国の権力者に自分の知力を見せつけながらのし上がっていくみたいな状態だったようだ。

今でも儒教の孔子は有名だが、それを批判している道教の老子と荘子が面白い。

儒家は「道」を、もっぱら人間の行為規範の意味に用いたが、老子にあっては万物の根本を意味し、同時にそれは行為規範を表すものでもあった。
「徳」とは本来、まっすぐな心を表す言葉であるが、儒家はこれに人格的品性の意味を与えた。老子においては、それは物質的概念であり、同時に倫理上の概念でもあった。

ざっくり言うと前者は人間の最強を目指す意識高い儒教。後者はマイペースでありのままに自然と調和する道教。

中国の知識層の伝統的処世法は、公の場では儒教の価値観で自他を律し、私生活ではしばし荘子の説く天地一体の境地に安らぐことであった。「荘子」は、その文章の妙において、その発想の奔放・自由さにおいて、得難い文学書でもある。多忙な日常に明け暮れる現代人にとって、それは人間性を回復してくれる一幅の清涼剤となるであろう。

これは、資本主義のゲームの中で、お金を稼ぐためには、最強の個人を目指さなければならないけど、本当に人を幸せにするのはそこじゃないよねって言う現代と同じだ。どんな時代でも人は同じように悩み、同じように議論されているんだなぁと思う。

人間の判断は、常に相対的なものであって、絶対的な正しさなどどこにも存在しない。にもかかわらず、人間は「知」に頼り、自己の判断を絶対視しようとする。ここに知的動物である人間の、宿命的な悲劇の根がある。この悲劇の根を絶つ道はただ一つ。「知」の限界を自覚して、「知」を超えることである。

これは荘子だが、これは時代背景が、知識を競ってのし上がるみたいな時代情勢への批判。現代でいうならお金稼ぎに最適化される色々な能力値(売上とか、資金調達額とか、twitterのフォロワー)とかだろうか。

本来一個の自然存在でありながら、「知」に拘束されて自然から遠ざかってしまったところに人間の悲劇がある。人は自らの自然を回復しなければならない。いしを去り作為を捨てて、無心になりきる。そうしてはじめて自然のリズムと一つになり、限りない調和の世界に入ることができる。

荘子のいう知は知識で、自然は、完全にnatureの意味だったけど、これは現代風にはお金稼ぎに最適化される色々な能力値と、自分らしさと解釈することもできるなと思う。

荘子は人間のオアシスみたいな思想。100%こっちに振ったら現代は生きれないだろうなぁと思いながらも、こういう考え方で救われる人は多いと思う。



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