見出し画像

自由な人と、自由風な人

コロナウイルスが世界を賑わせている。まだ正解がない危機だからこそ、各人のこの問題への考え方や動きかたが違うので、他人はどうだろう、自分はどうだろうと思いながら内省する機会になっている。

読書はコロナウイルスであろうが変わらずできることなので、引き続き続けてて、昨日はずっとやりたかったことをやりなさい・2を読んだ。

"ずっとやりたかったことをやりなさい"は、やりたいことが本当はある & やれる人 & 勇気を持てずにできていない人によく薦める本。自分の中のアーティストを見出し、育て、発揮することによって最高の人生を掴んでいくためのワークショップ形式で進む良本。

そんな第2段はより実践的するときの落とし穴について述べられてる。自分のテーマである怒りへの向き合いかたや、自分の人生が他人に侵される状態について書いてある。

その中でいくつか印象的な描写があったのでその表現と、自分なりの咀嚼をまとめる。

私たちはじっくり考える代わりに心配し、深く考える代わりに焦る。

→特に今みたいなご時世では特に顕著だ。情報を取り入れながら、自分のアジェンダを持つ人と、情報に飲まれている人で分かれている。踏まえ、私の場合は、移動するしない、お金を使う使わない、自粛するしない・・とぶっちゃけ何がいいかわからないので、ただ一つわかっている、1) 今後求められそうなことをめちゃくちゃ勉強する + 2) 好きな事業をクイックに赤字が出ないように立ち上げるの二点のみに全バリすることに今この瞬間は決めている。

セラピーは傷ついた感情を「客観的に」眺めることで、心を鎮めようとする。一方アートは外部の現実の知覚を変えるのではなく、私たちが表現するリアリティを通してその現実を変えるために、傷ついた感情を用いる。

→傷を癒すには、痛みを分離することや忘れることが美徳とされるけど、本当に直すには自分の内面に向き合いながら、過去に閉じ込めて傷となってしまっている自分を解放し、本当にやりたいことを叶えていくことが根本治療。自分を客観的に話そうとしたらアラートを鳴らす。

ホロコーストの犠牲者は収容所の壁に爪で蝶々をかいた。「あなた方は、私の魂までは殺せない」と語っている

→どんな状態でも、デカルト的に「我思うゆえに我あり」なので、我思うことは誰にも邪魔できないし、そこに向き合うことが幸福度を上げる。今やっているクラファンは数字目標をTopに持ってくるのではなく、表現したいものをTopに持ってくるようにする。

「誰も私のことを真剣に受け止めてくれない」と不平をこぼす人は、「私は自分自身を大切に受け止めていません」と打ち明けているに等しい

→この数年かけて、頭ではだいぶ理解しているのに、そういう感情が湧くことがあるので、まだまだ自分自身を大切に受け止められていない部分が多すぎるので、自分が嫌がっているものに逃げずに向き合いたい。OYOについてはよく頑張ったよなと自分自身で認めればいいなと思った。

創造性の表現が計算し尽くされた"仕事"になってしまうと私たちは非常で計算高くなってしまう。

→お金の本質はありがとうの数値だと思うが、まだ今の世の中は酸素の数値の要素が強い。コンパスの先はありがとうの数値として見失わないようにしつつ、今を生きるために計算した仕事もしなければならない。今の世の中はコンパスの先を自分なりに定義し、揺るがないものにしながら、計算した仕事もできるようにする必要がある。

自由風な人は、得てしてやけに辛そうだ。何かを誇示したり、有名な誰かにすがったり、何かに怒っていたりする。自分も自由と自由風を行ったり来たりしている気がする。自分を保ちながら、まっすぐ一歩を踏み出していくのは、本当に難しいものだなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?