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【日記】R040707 ウマ娘は何と比べるのが適切なのだろう

 『ウマ娘』をやめて3ヵ月ほど経った。多くの人が実感していたり予想していたりするように、この手のゲームに手を出すと大量の時間を費やすことになる。なかには「いったいあの時間で何ができたのだろう?」と自分じしんに問うことになり、はじめたことを後悔する者もいる。私じしんがどうなったのかは端折る。

 ところで、『ウマ娘』をやめることで得た時間でいま私がなにをしているのかというと、本を読んだり、映画やアニメを見たりしている。『ウマ娘』以外のコンテンツを順調に消化しているわけだ。
 私は「読むべき本リスト」や「見るべき映画・アニメリスト」を頭の内に抱えることから逃げられなかった人間なので、『ウマ娘』をやめたところで時間が足りないのは変わらない。流行りの「倍速」で見ていく姿勢もやめられない。「自分で小説を書くためにはインプットが必要なんだ」というのが一つの言い訳ではあるけれど。

 自分でも小説を作っている立場として思わざるをえないのは、こうして無限の「名作」を前にしているのは私だけであるはずもないということである。むしろ多くの人びとがそうであるはずだ。すると、そんな中で自分の作るモノが人の目に入るのかどうか、非常に疑わしい。実際のところまったく入らないわけでもないらしいのは驚くべきことではあるけれども、私が「私」をまったくの他人として接した場合、その人の書くものが、積読に囲まれている私にとって、読むべきリストに入る望みはぜんぜんないような気がする。私の実力が足りないのだが、多少力をつけてたところで、たいていの作品がそうなることは否めない。

 それを思うと、「リスト」を押しのけて、「読むべき」「見るべき」を後回しにさせつづけた『ウマ娘』は一体なんなんだろうということも、問うことになる。もちろん、私は『ウマ娘』が好きである。メジロ家箱推しというやつかもしれない。ただ、その一方で、個々のキャラクターのシナリオが個々のコンテンツとして傑出していて、一個の作品として「名作」たちに比肩するようにも思えない。もちろんキャラクターはチャーミングでかわいいけれど、それは他の作品も同じだ。にもかかわらず、数多いそれら名作たちを押しのけて私の視界に入ってくる。つまり、このことは『ウマ娘』を一個の作品としてとらえて、他の「作品」と比較するということ自体が、どうやら間違っているらしいということを示している。

 私が『ウマ娘』のキャラクターに愛着を覚えるのは、個々のキャラクター描写が魅力的描写されているからではあるけれど、それはそうなる原因の一つにすぎない。より大きいのは、おそらく、そのキャラクターに触れる時間の長さそのものにある。『ウマ娘』をやると、担当ウマ娘だけではなくて、他のウマ娘たちにも触れることになる。一人のウマ娘のシナリオは他の多数のウマ娘たちに関連づけられたシナリオでもあり、その中に挿入されるアクションやムービーも同様だ。この「関連」または「続き」を追っていくだけで、自然と大量の時間を消費することになる。そのなかでキャラクターを好きになってしまうし、ある意味、好きにさせられてしまう。こうした側面からすると『ウマ娘』は、一個の作品というよりも、多数の作品が収められた「枠」であり、あるいは次々と関連コンテンツが投稿されていくプラットフォームのようなものと考えたほうがいいように思える。

 一個のコンテンツが、それ自体がその中でコンテンツを供給し、紹介し、編成するような「枠」にもなっているのだ。いったん枠の中に入ってしまうと、その枠の中でいくらでも関連づけられたコンテンツが見つかるので、なかなか出てこられない。こうしたYouTubeやTwitterなどのプラットフォームが備えている特徴を、『ウマ娘』は持っている。それは昔からあるメディアミックスと呼ばれるものと似ているようでかなり違ってもいて、これをうまく言い表す言葉がまだなさそうである。


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