【日記】R040315 羅生門

 芥川の原作小説である『羅生門』と『藪の中』の二編と、黒澤明の映画作品とを比べてみると、前者にくらべて後者が、いわゆるハートウォーミングな救いを描いていて、やや偽善的なストーリーになっているという印象は否めない。黒澤の映画では、その冒頭から、「物語」の語り部である木こりや旅法師があらわれるが、彼らは、自分たちが遭遇することになった「事件」にたいしておびえている。木こりは、「人が信じられなくなった」と度々口にしながら、廃れた羅生門で、もはやその真相は「藪の中」となったことどもを語る。語りながら、彼はうつろなまなざしでいて、目の前を見ているようではない。自分がこれほどおびえるのは、人と人とのあいだに横たわり、お互いを救いがたく隔てている「深淵」をのぞきこんでしまったからで、一度をそれを見てしまった以上、いまさら「知らぬが仏」をきめこんで、そこから目をそらすようなまねはできない、と言わんばかりである(真実をまなざすものの表情が、同時にその場から目をそらすものの顔でもあるというのはおもしろい)。だが、物語の結末には、それにたいする「救い」が用意されているのだ。

 おそらく、原作小説における『羅生門』で下人と老女を隔てているものと、『藪の中』で語り部たち同士を隔てているものとが、同じであるというのが黒澤の解釈なのだろう。それは木こりに語らしめた「不信」という深淵であり、この共通点をもって芥川の二編を黒澤は一つの映画作品にしたのだろう。そうであれば、この解釈にはなるほどと思わせられる。けれども、はたしてそれはあのラストで解決されるような筋合いのものだったのだろうか? 私にはそうは思えない。この印象を強めているのは、救われるのが言語を使うことができる老女ではなくて、もの言う能力のない幼児であるという変更点によって、より強められる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?