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【日記】R040718 ファ美肉おじさんと

 次回の物語論勉強会の題材である『異世界美少女受肉おじさんと』を見ている。2周目だ。ノリがよくて楽しい。

 あらためて語るのは野暮かもしれないけれども、この作品のユーモアを成り立たせているのは、神宮寺や橘が、自分たちにふさわしいと思っていた「物語」から、女神がおこした奇跡(異世界美少女受肉!)によって、突如として下ろされてしまったということだろう。

 たとえば、神宮寺は、これからも橘と演じていくべき「友情の物語」を胸中に抱いているっぽいのだが、橘が美少女になってしまったことによって、さらには橘の呪いでもある「魅了」にかけられてしまうことによって、その物語を思いどおりには生きていけなくなる。一方で、まったく別の「恋愛の物語」が、神宮寺に自分じしんのありうる姿として浮上してくる。

 そして、実際には、2つの「物語」のどちらも、彼らじしんが演じるところができないーーというのが、「この物語全体」のユーモアある構成なのだ。神宮寺たちは脱線させられた「友情の物語」と、新しく示された「恋愛の物語」の板挟みになって、じたばたもがく。その姿が楽しい。抱えている物語の種類は違うだろうけど、シュバ君や頭目も似たような構図のなかにある。

 ところで、「愛と美の神にかけれた呪いで人生を狂わされる」というのは、ギリシア神話で見かけるモチーフでもある。ひょっとしたら、「アポロンとダフネ」や「エコーとナルキッソス」辺りを下敷きにしているのかもしれない。突然、その人が生きるつもりもなかったような「物語」を強制的に示す力が、恋愛というモチーフにはあるのだ。
 でもそんな共通点から「コメディと悲劇は隣り合わせ」などという教訓を見つけるのは、退屈な気がする。むしろ違いを考えてみよう。

 橘におこった奇跡は、目に見える変化で、しかも彼(?)じしんが次々と男たちに恋の呪いをかけていく側であるというところが、エロスの矢に射られたアポロンやナルキッソスと比べたときの大きな違いである。さらに古代ギリシアの彼らの関係は基本的には一対一だが、橘にはたくさんの犠牲者がいる。人びとそれぞれの胸にあっては唯一無二の「恋愛の物語」が、橘の魔力で、行く先々で巻き起こされる。美しく愛らしい橘が、その無数の物語たち前に立っているのが、私たちには目に見える!

 こうした「恋愛の物語」の顕現にあっては、狂わされるのは「主人公」ばかりではなく「対象者」もまた同じであるということを「アポロンとダフネ」は教えてくれる。でも、アポロンが百人いたらどうなるだろう? たぶん、「主人公」はダフネとなるのだろう。そのときにはダフネが求める「対象者」が別にいて、それはアポロンではありえない。橘が賊たちを求めるような「物語」がありえないのと同じように。

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