【日記】R040804 感傷的な散文の悪

感傷的な散文を読んだ。

その文章は、この世にひしめくがさつでデコボコしたものどもに書き手がぶつかっては傷を受け、いかにその傷が自分の存在の芯に食いこんで、もはやなにごともそこらしか始まらないかのように、おのれ自身を物語っている。

それでいて、それは「センチメンタル」が罵倒となるような文脈にたいする目配せも忘れず、一笑にふされるべき「センチメンタル」な愚劣さが世間にありふれていることは、重々承知であるかのように振る舞う。「私の感傷がそれと同一視されるのならば、読者のほうに手落ちがあるのだ」と、ひらながなと点の多い、それじたい細切れでセンチメンタルな「声」がほのめかす。

こうして書き手は自分の感傷を伝えようとするなかで、その声によって、読者にたしいて禁止を強いている。か細い声は、注意深く、ひたすらに耳を傾けることを求める。それは途切れがちにだらだら続くことで「いや、そうでもないんじゃない?」という疑問を禁じ、声がとどく手近いところ以外で意味づけられること禁じる。だが、ほんとうに「か細い声」であるならば、それがコラムとして掲載されることもないし、これほど遠い私の耳にとどくはずもない。つまり、これは演技であり、嘘であり、それでいてそうでないかのように声を聞くことを読者に強いている。

読者にそれを強いるのは、書き手が自分の目に入らないような「自分」の姿を忘れるためである。誰も自分の背中を見ることはできないし、話しているときの自信の顔つきを見ることができない。この文章が、書き手が望まない形で疑問に付されたり茶化されたりして、その「背中」や「顔つき」を暴かれたりしたならば、書き手はたちまち不可視な心の世界に逃げ込むのに違いない。そして、そのなかで真の意味をたしかめながら、驚きを与えたものどもを、書き手にこの文章を書かせたこの世のがさつでデコボコものどもとどうにかして同一視しようとするのだろう。

ここに感傷的な散文の悪がある。もし書き手がそれができる逃げ道をつくることに成功しなければ確信はなく、その確信こそが感傷を可能たらしめる条件だからだ。それが成り立つとき、書き手は、自分には決して見えないものを見つけうる、他人の不可視の心というものを禁じている。他人が持つことに禁じたそれを、自分ではむさぼりながら、それに気づくことがない。

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