【日記】R040721 運命と予感とその構造

一般に、ミステリ作品は物語後半にその物語の構造が明かされるような作りになっている。それは探偵と犯人との戦いを物語るのだが、他方で、その「犯人」とは誰なのかという正体が伏されていたり、疑惑が宙吊りにされていたりしながら、展開していく。

さまざまに謎めいた事件の連続を追いながら、「それらの出来事は物語上どんな意味があったのか」ということが後半に明かされるのだ。そこに至ってやっと読者にも物語全体の構造が了解されるようになる。

そして、おおくの場合、その真相を語る「物語」の語り手こそが金田一耕助のような「探偵」であり、またその「物語」のなかで主人公を務めているのが「犯人」であったりする。たとえば、『犬神家の一族』は佐清が、『悪魔の手毬唄』はリカや歌名雄が、裏の主人公であるような物語として、構造を読むこともできるだろう。

ところで、金田一耕助シリーズは原作小説と市川崑による映画版を比べてみたとき、おおくの変更点のなかでも、シリーズを通して目立つのは「警察」の存在感の違いだろう。映画版における警察は、謎が喚起するミスリードにつぎつぎはまっていき、真相から遠ざかる「偽物語」を連発するキャラクターとなっている。おどろおどろしい事件の傍らで、彼らマヌケさが絶妙なユーモアを作品にあたえているのだが、こうした点をに注目すると、映画版では「真物語」を語る探偵と「偽物語」を語る警察とが、ライバルのような関係にあるとも言えるかもしれない。

こうした特徴は、原作小説の警察たちには見られない。彼らはマヌケでもなければ、ライバルでもない。原作小説では「謎」たちがミスリードをしかけるのは読者であって、キャラクターである警察ではないのだ。よく言う「ミステリは作者と読者の知的遊戯」という伝統に、原作小説は則っているのだろう。それと比べたとき、映画版がミステリという格好をとっているのは、形式上のことにすぎないと言えるかもしれない。

『悪魔の手毬唄』の映画版で、磯川警部がリカを相手に過去の「事件」を熱っぽく語っている場面を見ると、視聴者にはその後の展開がある程度わかってしまう。でも、そこでリカが犯人であることが予感されてしまったとしても、それはこの映画の弱点であるとは言えない。後に来るどんでん返しに、作品の力点があるわけではないからだ。むしろ、それにまだ至らないにこの場面に描かれているのは、視聴者にはありありと予感されている悲劇(運命!)を知らないでいる、哀れな中年男のすがたなのだ。

この運命の予感は、作品のその後の展開を知った後になっても、つまり映画を繰り返し見たとしても、いわば構造上「予感」として、その場面に刻印されつづける。見るものは予感を予感として、何度も味わうことができるようなものなのだ。でも、そのことを、より構造的に言うとしたら、どのようなことになるのだろう? これについては、また今度書こう。

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