見出し画像

【日記】R040712 神官と歌

 ジョルジュ・ミノワ『未来の歴史』によると、古代ギリシアの神託所にはわけのわからない「詩」を語る巫女がいて、その言葉を一般人にも意味がわかるように解読する知識人として神官たちがいたらしい。こうした「神の言葉としての象徴を生み出す詩人」と、「それに現世的な意味づけを与える専門家」というのが作家と批評家というものの起源なのではないかしら。『未来の歴史』を読んだのは昔だけれど、そう思ったのは覚えている。

 いまになってそのことを思い出したのは、この動画を見たからだ。動画のなかで、「日本人はコンテンツを生み出す作家の層は厚いが、全体のなかでそれを意味づける批評家が薄い」というような旨のことを番組MCの成田悠輔が語っている。
 対話する若者とともに、ここで語られている「全体の構造をとらえるのが苦手な日本人」という日本文化論は、それ自体はかなり耳タコというか、ありふれたものではある。

 ただ、動画中の「日本における批評家の不在」と、先に推定した「起源」念頭に置いてみると、ドナルド・キーンが古今和歌集の仮名序について述べたことも混ぜて考えてみたくなるのだ。仮名序における「力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも慰むるは歌なり」という紀貫之の文学観は、神が人間の口を借りて「神の言葉」として詩を唱える西洋の文学観とは全く異なるというのがその趣旨である。

 もしも批評家の起源が神の言葉である「詩」を読み解く「神官」であるならば、神に語りかける「歌」にたいして、その解読者がいないのは当然といえば当然である。神の言葉を人間がわかるように注釈づける知識人は考えられても、人間の言葉を神に分かるように注釈づける知識人など考えられそうにない。この延長に日本文化がるならば、批評家の不在も当然の帰結となるのだ。

 ところで、こんなふうに作品を「神が語る」タイプと「神に語る」タイプに分けて、その起源から現代の日本文化を論じるならば、神官=批評家の不在が当然であるのと同じように、いまもって作品をとおして語りかけられるべき「神」が、どこかにいるのでなければない。それは一体なんであることになるのだろう? 
 これはこれでぱっと思いつかない。とりあえず「お客様」ではあってほしくはないけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?