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【日記】R040714 家族と国家は共謀する

 ダイバーさんのところの読書会に参加するので、そこで扱われる信田さよ子『家族と国家は共謀する』を一読した。以下にざっくり感想を書いておきたい。

 これまで家族間の葛藤は、おおくの物語のモチーフとなってきた。ともすれば、そうした葛藤は、「家族の愛情」という美名のもとで容認されてしまいがちである。しかし、「家族の愛情」という視点を離れたところから、その権力関係を捉えなおしてみるのならば、それはしばしば「被害者/加害者」の関係として可視化されうる。この視点から見るとき、「家族」は人びとに安寧をあたえるべき居場所などではなく、支配するものと支配される者のいる暴力の温床であるのだ。
 著者は、心理士という職で得た経験をもとに、本書でそうしたパラダイムの変換を促していく。本文の言葉を借りれば、その新たなパラダイムが「司法モデル」である。

 ところで、この本を読んでいて気になるのは、そのパラダイムシフトをするインセンティブが分かりづらいことである。いちおう、著者のもとに訪れる「被害者」たちにとっては、それがあるとは言える。「被害者」たちは、愛情モデルのもとでひたすら苦しんできた立場であり、そこから逃れる必要があるからだ。
 ただし、著者は「家族の愛情」から「司法モデル」へとパラダイムを変えること自体が、多くの場合、さまざまな心理的抵抗が伴うことであり、ほとんど苦痛や屈辱に満ちた試練であるかのようにも書いている。「被害者」たちにとっても、パラダイムシフトは苦しいことであるのだ。彼ら・彼女らにそれができるのは、進むも地獄・戻るも地獄の窮地におかれているなかで、それでもその変換に一縷の希望を託せるからだろう。
 一方で、それほど窮地に立たされていない者にとってはその必要がないのもまたあきらかである。あるべき理想の円満な家庭関係が100点であるとき、せいぜ60点くらいの平凡な家庭関係で平凡な葛藤を抱えている人にたいして、人生を受難の物語として見るストレスと引きかえに、「あのときあの親の『暴力』がなければあなたは80点だった」とパラダイムシフトを促したところで、それが起こるのぞみはあまりないような気がする。

 にもかかわらず、マイナスのインセンティブを書き連ねていくところに本書の目立った特徴があるとは言える。おそらく、「レジスタンス」として戦うべき壮大な敵がいる物語を描くことで、自尊心を利得として強調する狙いがあるのだろう。それが成功しているのかどうかは、一読したかぎりではよくわからない。ただ、著者のような一部の心理職がその利得にあずかる者であるのは留意すべきことだろう。そのこともあってタイトルの『家族と国家は共謀する』というのは、本文の内容をあらわすものとしては微妙であるという印象は覚えた。

 前近代の封建主義的秩序にあっては、親族集団はそれぞれ「しきたり」というローカル色が強いルールに則って動いていて、家族はその構成単位である。こうした「しきたり」が、近代以降、時代が下るとともに産業の工業化や都市化によってインセンティブを失い、没落していく。それがかつて起こったパラダイムシフトである。私たちがいまでもなんとなく抱いている「家族」のあるべき姿は、その名残りのようなものと言えるだろう。

 それを動かしているコンセプトが、「国家」において定められた「法」と異なる秩序であり、その違いが「無法」に見えるとしたら、ことの趨勢に逆らってると言うよりは、むしろ従っていると言える。人権感覚の変化についても、日本という国家が国連の加盟国で、もろもろの国際条約の締結国であり、2005年以降の「人権の主流化」の動きに国家として同調しているからという背景が大きいはずだ。その辺のことを考えあわせてみると、それがいいかわるいかはさておき、実は国家と共謀しているのは「家族」ではなくて「レジスタンス」を自称する側、またはそう称することを促そうとする側である、ということになるのではないかしら。


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