【日記】R040327 散歩の風景とシン・ゴジラ的日本

 石神井川沿いをランニングしていたら桜が咲いていた。何日か前に川沿いを散歩していたときにはまだ咲いていなかった。川の水の上に伸びた枝には、まだ蕾のままでいるのも目立つけれど、もう1週間したら散ってしまうかもしれない。

 この季節の東京では、いわゆる「桜の名所」とされるような場所は、どこも花見客の人混みが目立って、ひとりでぼんやり花を見るのには向かない。
 個人的には、近所の川沿いや住宅街のいりくんだ路地を歩いてみて、小さな公園に辻に桜の木が忘れられたように咲いているの見たりするほうが楽しい。

 そんな樹のそばにはうらぶれたベンチや、ライトグリーンのテントがぼろぼろに破れた、かつてはなにかの会社のビルだったらしい廃墟や、俳句が刻まれた石碑が立っていたりする。桜の花をさがしながらあてどもなく歩いていると、自分がそれなりに知っているはずだった町の、知らない表情を見つけられたりする。歩いているうちにじわじわ驚きの波がやってくることがあり、たとえ桜が咲いていなかったとしても、そうなれば時間が許すかぎり、流されて歩いてみたくなる。

 自分が暮らすこの小さな町の風景にかぎっても、私はぜんぜん知らないのかもしれない。私は日本語を母国語としているから、こうしてみている風景が、私がそれによって記憶したり思考したりする言語の故郷である。私はそれをよく知らない。驚くとともにもっと知りたくなるのは、その意味で私の聖地でもあるからなのだろう。これがいわゆる愛国心というものなのかしらと思ったりする。ただ、違うかもしれないような気もするのは、ここで私が気持ちを向けているらしき風景は、たとえば、丁度この前に見た『シン・ゴジラ』などで描かれる「日本」とはだいぶ違っているからだ。

 それは、日本として「描写」されるその内容が、自分が目にしている事柄と違うという意味ではない。違うのは、内容よりも形式である。『シン・ゴジラ』に出てくる「日本」は、国家としての日本であり、政治政党や官僚組織にたずさわる人びとであり、世論のなかでそれが問われる問題としての日本である。それは、よく知られているか、よく知られているべきであり、その姿が知らされることに驚きを与えるようなものではない。驚きをあたえるとしたら、普段世論のなかで行政組織の弱点として問題視されているような「日本」の性格が、ゴジラを倒すのに足るようなものであることがあきらかになる点であるだろう。

 もしそこに「チーム日本」の一員として擬似的な達成感を得られるとしても、それは散歩で風景を見ながらぼんやりと驚きを覚えているときの愛情らしきものとは似ているはずもない。「こんなところに住んでいたのかあ」などと驚いているうちはチームの一員になることもできなければ、自分のまだ知らなかったはずの「日本」の性格について、世論のなかで是非を云々することもできないからだ。

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