【日記】R040711 翔太が語る「夢っぽい感じ」の行方

『翔太と猫のインサイトの夏休み』第一章の冒頭で、翔太は、「何度も『夢から醒める』という経験を繰りかえす」という夢を見る。彼は、あらためて夢から醒めた後でも「これは夢なのではないか?」という疑いを自分じしんに投げかけて、どうやら夢ではないようだと感じるが、それに対してインサイトは「どうして夢ではないのか?」と疑問を投げかける。

 翔太がその答えとして明示的に述べる理由は、4つある。結論から言うと、以下の理由はすべてインサイトから「だからと言って『これ』が夢ではないとは言えない」とされることである。
①「夢っぽい『感じ』」がしない。
②「これは夢なんじゃないか?」と何度も疑ってみて「違う」と確信できるような夢をこれまで見たことがない。
③頬をつねったり人に話しかけたりして「夢ではない」と確かめた上で「やっぱり夢だった」という経験が、これまでにない。
④夢のなかの自分は、毎回違う自分で記憶が連続していないが、いま翔太である自分は記憶が連続している。

 インサイトが上述の理由を理由として認めないのは、基本的にはそれでも①~④のような内容を備えた夢をみることはありうることだからだ。

しかし、ここでインサイトは「そういうわけだから、これは夢かもしれないんだ」ということが言いたいわけではない。インサイトは、むしろ、夢の本質を「眠っている間に見ること」として、これに「眠っている間には自分が眠っていると気づくことができない」と注釈をつけることで、「夢のなかで『これは夢なんだ』と気づくことはできない」と論じる。そして、続く議論の流れとしては、どうやっても気づくことができないような「真実」を語ることはできず、そのことから「これは夢なんだ」という文には意味がないことになり、そうであるかもしれないとも言えなくなる。
 
 けれども、先に進む前に私が疑問に覚えるのは、「それなら翔太がその前に述べていた『夢っぽさ』の方はどうなるのだろう?」ということである。翔太が「夢っぽさ」として認識していた性質を欠いていても、「寝ている間にみること」という「夢」の本質を欠いているかどうかとは関連がない、というのがインサイトの議論であるように思える。逆に言うと、夢の内容として、翔太が認識していた「夢っぽい/現実っぽい」の基準はまるごと残される。それは結局のところなんだったのだろう?

 関連がないということは、たとえば、次のようなことが考えられなくてはならない。①~④についてひとつひとつそういう夢がありうるかどうか考えるのではなくて、全ていちどきに成り立つような夢を考えてみるのである。つまり、①真実らしい「感じ」をまったく得られず、②「これは夢なのではないか?」と自問自答するたびにそうであるとしか思えず、③自らの頬つねってもそれらしい感覚がなくて他人に話しかけても意味がある言葉を返さず、④以前の自分の記憶が存在しない――ような夢を見ることがありえなくてはならない。

 だが、どんな夢を見ればそれらの条件を満たすような夢を見たことになるのか? そんな夢を見ること自体が難しいのではないだろうか? 翔太が認識していた「夢っぽい/現実っぽい」の基準は、そういう名づけが不当なものであるとすれば、いったい何の基準だったことになるのだろう?


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