【夏】時すでに冬【終了のお知らせ】

夏、終わったな。

もう完全に寒い。
寒いので、完全に終わりました。夏は。

今年の夏はなんにもなくて、というか、春先からずいぶん長いこと何もない日々が続いて、何もないままいつのまにか、【夏】【終了のお知らせ】と来たものだから、ここ最近の俺は急にきた【冬】に心身が追いつかず、今更になって夏の幻影を探し始めたらしい。
夏が始まった頃に買ったそうめんは未だに半分以上残っている。揖保乃糸が結局一番うまい。この価格でこのうまさはすごい。スーパーで手に入れられる最低価格の幸福だ。

幸福。
その意味を考える。

簡単に単純に滞りなく軽々しく使ってしまう言葉の一つであるけれど、しかしいったいぜんたい「幸福」とはなんなのか。
ヒトは幸福である時、幸福であると自認できるものなのか。お前らは、おのれの【幸福】をおのれの意識下に置いて浸かる事ができるのか。いったいぜんたい。幸福とはなんなのか。

そう、俺が言いたいのはそういう事で、つまり、幸福という言葉を使う時、本当に俺は俺が幸福だと感じているのか。そもそも、俺は俺が幸福であると本当に本当に実感した瞬間が過去これまで一度でもあったか、という事だ。

俺は断言できる。

俺が幸福を実感した事など、一度たりとも「ない」と。

幸福だった事がない、という訳ではない。恐らく幸福という言葉やその意味を知るうんと前には俺も幸福に生きていて、しかし、それを実感できる年齢になる頃にはもう自分は「こう」だったのだ。こうなってしまえば幸福などなれるはずがない。これは俺自身の性格によるものなので仕方ない。「仕方ない」で片付けられてしまう程度のものだ。

福祉の仕事をしている。見て分かる、福祉の福は幸福と同じ字を書く。祉という字にも同じような意味があるらしい。つまり福祉とは幸福。幸福とは福祉。文字の上ではそうなっている。
しかし、実際はどうだ。
果たして福祉は幸福の為に存在できているか。ノーだ。現在福祉とはただ不足を埋めるだけに存在する、ただのセーフティーでしかない。それすら足りてない。必要なところに必要なだけあるべきものが、満足に充分に事足りている所などない。あるかも知れないが、俺は見た事がない。

福祉を学ぶ学生だった時、この国の福祉に絶望した事がある。そして今も希望を見出せないまま福祉の仕事をしている。

利用者やその保護者たちは我々職員のことを「先生」と呼ぶ。福祉の仕事に資格は必要ない。就いてしまえば就いてしまえる誰でもいつでもどこでもできるお仕事だ。(必要な素質はあると思う)

先生。先生か。

教員しかり医者しかり、一般に「先生」と呼ばれる職業にはそれなりの資格を持った者が就いている。しかし福祉の現場はそうではない。けれど彼らは我々を先生と呼び、そう呼ばれる「資格」を持たない我々は先生と呼ばれ続ける。居心地が悪い。
呼ばれ続けて、勘違いする者もいる。自分は先生たる人間であると。
馬鹿みたいだと思う。
資格があればいいのかという話ではない。福祉の現場において、先生たる人間は不必要だと俺が思っているだけの話だ。

教員になろうと思っていた事もあって、学生時代はその資格を取るべく単位を取っていた。結局単位が足りなくて持っていない資格だが、しかし、単位が足りていたところで俺は教員にはならなかったんじゃなかろうかと思う。なると、考えるのをやめてしまうから。俺はね。性格上。
学校現場における教員の持つ権力の絶大さにはよくうんざりする。生徒たちは見ず知らずの人間であっても「先生」を「先生」と認識し「先生」と呼ぶし、呼ばれれば、教員たちは自身を「先生」だと自覚する。実習に来た万年寝太郎プー太郎の大学4年生ですら、学校へ行けば「先生」だ。

なんの話だったか分からなくなってきたな。

言葉の意味などでいちいち引っかからないで、単純な呼び方だけで、そのまま流してしまえたなら俺はもしかしたらとっくに「幸福」だったかも知れない。

この世界に夏も冬もない、ただ生きているのに変わりはない。生きているから飯を食わなきゃならないし、だから金が必要で、だから働かなきゃならない。そういう単純な話だ。

寒いなあ最近。
温かい茶を飲みたくて良い茶葉を買ったのでhappyになった。

おわり。

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