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日記21:煙が目にしみる(2019/08/16)

花火大会は嫌いだった。
知らない人間ばかりの雑踏と、爆発音と、目にしみる煙の匂いと、眩しい屋台に群がる蝿と、知ってる街が知らない街になったみたいなそういう空気感が全部。全部全部嫌いだった。だから花火もそんなに好きじゃなかったんだけれど、去年の夏の花火は初めて胸に染みて、花火というものが夏の象徴みたいな顔して在ることがすごく腑に落ちた。どうしてだろうね。

君は花火を見て、何を思い出す?

私は死んだ人間の顔ばかり思い出すんだよな。花火を見てないときだって、死んでしまった人たちのことばかり考えてしまいがちだけれど。
空を見上げるからだろうか。花火を見るときって少し火葬場の煙突を見上げるときの気持ちと似てるのかもしれない。自分が行けない手の届かないところに何かが行ってしまう感?

去年の夏、夏の始まる少し前、友人が死んだのだけれど。だからその年の花火の上がる音は私の胸にめちゃくちゃに響いてしまったのだと思うのだけれど。

ただ人混みのなかで浮かれて見上げるためだけのものじゃなくって、そうか、こういう感傷にも浸れてしまうのか、花火。
同じ花火を見てきた人たちの中にはやっぱりそうやって死んだ人を思い浮かべて泣いた人もいたのかも知れないな。そういえば今年はまだ一度も見てない。あ、いや、ロッキンのラスト花火は見た。あれって花火見たカウントに入りますか? 入る? 綺麗だったよ。

嫌いだとか言って、毎年花火そのものは友人と一緒に見ていて。花火大会に行くのではなくて、友人の家のベランダから見るんだけど。地元から引っ越してしまったから機会を逃してしまったんだな。

こうやってきっといろんなものと疎遠になって、いろんなものを失くして行って、年老いていくんだ。寂し。寂しいことばかりじゃないのなんかもうずっと昔からわかってるんだが。

どうしてもどうしてもいろんなものを惜しんでしまうね、人生だから。

「煙が目にしみる」って邦題考えたやつは天才だね。スタンダードジャズナンバーのひとつです。聴いたことある? 一つの愛が燃え尽くされた終わりには煙が目にしみるらしい。しみちゃったのか、そうか。

終わってしまった感はないけれど、それでも確実に何事にも終わりはあって、燃え切ることができたのだとしたらそれは不完全燃焼なんかより絶対にマシなのだろうな。でもね、死んで欲しくはなかったよ。

#あの夏に乾杯
ってタグに参加しようとして書いたんだけど、乾杯できるテンションの文章じゃなくなってしまったね。いつもより比較的丁寧に書いたから、やや余所行きの文になってしまった。つまんなかったらごめんね。
自分の文章を赤の他人に読んでもらう機会を増やしてみてもいいかなと思って。

どうしてもわたしには私の身に触れた「過去の夏」を評価したり賞賛したりなんてことはできなくて、ただ去って行ってしまったことを惜しんで惜しんで寂しがって、乾杯なんかできなくって、お酒もあまり飲めなくて、一人でぬるくなった麦茶を飲んで、そうしてまた終わっていく夏を思って勝手に寂しくなるの。

今年の夏が終わるまでに、私たちは一体何をしていたらいいんだろうね。
わかんないけど、がんばろうね。
べつに頑張んなくてもいいけど。


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