特別な日

毎年毎年やってくる誕生日がここ数年はあまりうれしくない。うれしくない、どころか「また無駄に齢を重ねてしまったのか…」と気分が沈むようにもなってきた。子どもの頃は30代の後半ともなればそれなりに大人びた人間になっているものだと思っていた。実際にその30代の後半になってみるとなんのことはない、図体こそ多少は大人びてるにしてもその内面は相も変わらず幼稚なままだ。そんな子ども大人が社会の底辺で人に嗤われながらかろうじて生きている、それが現状である。幼い頃の僕が今の僕を見たら何を思うのだろう。

そんな誕生日がまたやってきた。3月の終わり、気候としてはすごくいい時期に産まれたものだ。気候は良くても気分はやっぱり沈むし、そんなに嬉しくはない。
誕生日を覚えてくれている人がいる、というのは嬉しいことなんだと思う。僕の場合はSNSや何やらで自分の誕生日の盛んに喧伝するのが毎年のことになっているので、たとえ誰も僕の誕生日を覚えてくれていなくても無理矢理に「誕生日おめでとう」くらいの言葉は引き出している。本当はそんなことをしなくても向こうで覚えてくれていて、こちらがアピールするまでもなくおめでとうの一言くらいは言ってもらえるのが理想だが現実はそうそう甘くない。こちらでアピールしなければ誰一人として僕の誕生日になど気づかない。いくら誕生日がイヤだとはいえ少しくらいは誰かに祝ってもらいたい気持ちは残っている。
僕自身はというと、人の誕生日になど何一つとして興味はない。おめでとうなどと言うこともほぼない。あったとしてもそれは下心を抱いている女性に対してだとか、そういう汚い打算に基づいてのことがほとんどだ。よくよく考えれば、友達だろうが何だろうが、誰の誕生日も覚えていない。他人が歳を取ろうが若返ろうが、心の底からどうでもいいのだ。そんな冷たい人間が人からは誕生日を祝ってもらいたがるというのも変な話だが、おそらくは世の中の人の大半は僕と似たりよったりな感性で生きているんじゃないかなあなどと思ったりもしている。

自分の誕生日の話だとこのように冷淡かつわがまま極まる腐った感想しか抱けないというのが率直なところだが、誕生日をとても大切にし、特別な日としている人だっている。
もう5年ほど前になるだろうか、そういう人の裁判を傍聴したことがあった。自分の誕生日を迎えるたびにその人のことをなんとなく思い出すのが毎年のことになっている。
その人は過失運転致死傷罪で起訴されていた。
夜7時ころ、普通乗用車を運転して交差点に差しかかったその人は赤信号を見落として歩行者と衝突した。歩行者は転倒し、脚の骨を折るなどの重傷を負った。本来ならば運転手は事故を起こせばすぐに車を降りて被害者を介抱するなり緊急通報するなりしなければいけない。だが、その人はそうはせず、その場から走り去ってしまった。つまり当て逃げだ。後日、付近の防犯カメラ映像や目撃者の証言から身元が判明し逮捕、起訴に至った…。
こうやって簡単に説明してしまえば、裁判所に通っていればよく見かける裁判である。もちろんこんなありふれた事件が新聞やテレビで報道されることはなかった。すぐに忘れてしまってもおかしくない、そんな裁判である。でも僕はこの裁判を数年経った今も忘れられないでいる。誕生日を迎えるたびに毎年思い出している。

「何かにぶつかった、というのはもちろんわかりました。でもそれが人間だとは思いませんでした」
法廷で当時の状況をそう語っていた男性、仮にAさんとでもしておこう。Aさんはその日、仕事を終えて経営しているジムから帰るところだった。
Aさんは急いでいた。
仕事が長引いてしまい、思っていたよりも遅い時間になってしまっていたのだ。
その日は予定が入っていた。Aさんにとって、ずっと大切にしていた予定だ。
「その日は息子の誕生日でした。息子の誕生日は妻と2人で食事をして、2人で息子のことを話すのが毎年の習慣でした」
Aさんの息子さんの誕生日。それはAさん夫妻にとっては1年のうちでもっとも特別な日だった。Aさんの息子さんは6歳だった。6歳を最後に、息子さんは歳を取ることをやめた。
「もう20年以上、この日は妻と2人で過ごしていました。毎年この日は休みを取っていたのですが、この時は仕事が忙しくて休みを取れませんでした」
早く。早く帰らなければ。
気ばかりが急いてしまう。本来は行くはずではなかった仕事。それも思ったよりも長引いてしまった。家では妻が待っている。そして写真の中の息子もいつまでも変わらない笑顔で待っている。
Aさんにはスピード違反などの交通前歴はない。日常的に車を運転していたが、免許を取得して以降40年近く無事故無違反だった。
しかしその日のAさんは違った。急がなければ。急がなければ。その一心でAさんは帰路を急いだ。


「でもそれが人間だとは思いませんでした。いや…人間だとは思いたくありませんでした。『今のは人じゃない、人じゃない…』そう自分に言い聞かせながらその場から逃げてしまいました」
人にぶつかってしまったこと自体はAさんの不注意だった。だがその後の行動に犯意がなかったわけではなかった。うすうすは、いや、本当は明確に理解していたのだ。それでもAさんは必死に大丈夫だと自分に言い聞かせながら走り去った。自分の帰りを妻が待っていた。ただただ急いでいた。早く帰って、今はもういない息子に会いたかった。
Aさんは自分が事故を起こしたことを認める勇気はなかった。
「わたしは息子を交通事故で喪いました。目の前で自動車にはねられる息子を見て、妻の心は壊れました。2人で長い時間をかけて少しずつ少しずつ…傷を癒やしてきたんです」
息子さんを喪ってからはしばらくの間、Aさん自身も車の運転を止めていた。生活の不便さから運転は再開したものの、その運転は慎重極まるものだった。Aさんが無事故無違反だったというのは先ほど書いたとおりだ。
交通事故被害者遺族の会にも幾度か参加した。そこで交通事故の撲滅を訴えた。
「もう誰にも、自分たちが背負ったのと同じ悲しみを背負ってほしくない」
その願いは切実だった。その日からずっと、Aさん夫婦の時間は止まったままだ。息子さんはもう、6歳から年齢を重ねることはない。

交通事故で息子さんを喪ったAさんが、その息子さんの誕生日に交通事故を起こす。
時に運命はあまりにも皮肉で残酷な顔を見せる。
「息子の事故の加害者は『急いでいた』と口にしていました。『頭が真っ白になった』とも話していました。加害者のことは今も赦せないし、今後もきっと赦せる日はこないと思います。でも、でも…」
そのあとは言葉にならなかった。
絶対に自分は事故を起こさない。Aさんはそう決めて、過剰なほどに気を遣って運転をしてきた。息子さんのために、そんな想いがあった。そのAさんを当て逃げという行為に走らせた原因、それも「息子さんのために」という想いだった。
「もう二度と、車の運転はしません」
Aさんはうなだれながら誓っていた。息子さんの誕生日は、2つの意味で彼には忘れられない日になってしまった。
誰にとっても特別な日はあるだろう。誕生日というのはそういう1日になり得る。
Aさんは、そしてAさんの奥さんは今はどうしているのだろう。今でも、毎年息子さんの誕生日を2人で悼んでいるのだろうか。

3月29日、僕も1つ年齢を重ねる。

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