どいつもこいつも乞食

つい先日、たしか1月22日だったか、我らがはあちゅう姐さんが誕生日を迎えられたとツイッターでご報告をなさっていた。久々にイケハヤとも絡むなどしてその健在っぷりをアピールしていて、いくら野暮なわたしでも「おうおう、めでたいことじゃ」と寿ぐなどしていた。そういうわけで、はあちゅう姐さんのご生誕を喜び祝う文章を書きたい、と思って筆をとっている。
さあ、喜び祝いたい。このめでたさを存分に文章にしたためたい。したため散らかしてやりたい。その気持ちはある。嘘偽りなく、わたしは彼女の誕生日を心から喜んでいるのだ。
だがどうしたことだろう。頭の中から何の言葉も浮かび上がってこない。脳内は完全な空白だ。そこに拡がっているのは虚無ばかりであり、文章どころか単語の1つさえ思いつくことができないでいる。

実は少し前からこうなのだ。はあちゅう姐さんのことを考え始めると脳が途端にフリーズしてしまう。何も考えられなくなってしまう。
こうなってしまったのには原因がある。はじめに言っておくが、悪いのはわたしではない。はあちゅうである。
というのも、はあちゅうさんの発信している内容があんまりにもあんまりなのである。痔であることを公表してみたり陰毛を脱毛していることを公表してみたり…「知らねえよ」以外の感想を持ちようもないゴミ情報ばかりなのだ。インスタのストーリーに載せたリップクリームがいくつ売れた嬉しい! なんてのを言われても「だからなんだようっせーな」としか思えない。自分で書いていて改めて思ったが、なんてくだらないのだろう。一体この世界の誰がはあちゅうの最新アナル事情について関心を寄せていると言うのだろうか。こんなゴミ情報にほんのかすかでも脳の容量を割いているという現実には絶望感さえ覚える。
その絶望感はわたしの脳に「はあちゅうが発信している事柄は記憶に留めないようにするし、考えることさえできないようにする」という、ある種の自衛機能を備えつけさせるにいたった。意図せずして、はあちゅうの発信はその内容に関わらず読んでも記憶にとどまらないようにわたしの脳はアップデートしてしまったのである。
どこか出かけた先で入ったコンビニのレジ打ちの名前を次の日まで覚えている人はいないであろう。その胸につけているネームプレートに記された名前など、視界には入っていても一切記憶には残らないはずだ。はあちゅう情報もそういった類の覚えなくていい情報として脳が勝手に処理をしてしまっているのだ。
そんなわけではあちゅうさんのご生誕を祝いたくても祝えない状態が続いてしまっている。そもそもこの文章を書いているのが1月27日で、すでに誕生日から5日経っている。「祝う気ねーんじゃねえの?」と疑われても仕方がない状況だ。たしかに祝う気など毛頭ないのも事実なのだが、どうにかしてこの冷温停止してしまった脳を稼働させて祝いまくりたいとも思っている。

祝いたい。祝いたくて仕方がない。だが僕は歳を重ねるにつれ、「誰かの誕生日を祝う」ということに嫌気が差してきてしまっている。
単純にめんどくせえのだ。
めんどくさいだけならいい。そのめんどくささをおして祝う、それが友情であったり尊敬の発露というものだろう。
でもなんだか、「誕生日を祝う」行為が友情や尊敬を示すようなものではなくなっている場面を多数見てきた。具体的に言ってしまえばキャバクラやらガールズバーやらアイドルグループ界隈でよく見かけてきた。「誕生日」がもはや金を出させるためのイベントにまで堕してしまっている場面だ。やる側はやたらキラキラした空気をまとわせようと躍起になっているが、はっきり言ってあんなもんはすべてがわたしのやっている乞食行為と変わらない。どいつもこいつも乞食である。
そういう時にはこちらも鼻の下を伸ばしつつ大金をはたく。貰う側も一生懸命に作り笑顔を浮かべて喜んでいるふりをする。もうすっかり様式化された光景だ。ここに本来あった「誕生日を祝う」ということに付随する素朴な喜びはない。そんなものはすっかり汚されてしまった。
こんなことを書いておきながら、わたしも誕生日(再来月に迫っております)になったらツイッターやnoteで全力でアピールをする。ツイッターにはアマゾン乞食リストを載せるし、noteではいつものように乞食をする。わたしはいつだってお金がほしいのだ。
とはいえ、誕生日っていうのはもう子どもだけを対象にしたいというのが本音だ。大人の誕生日は金ばかりつきまとう。もうわりとうんざりしている。自分も含まれてしまうが、誕生日をアピールする大人に対しては「もうそういうのやめようよ…」という気持ちを抱いてしまう。そうは思いながらも、再来月のわたしの誕生日にはみんながこぞってお金を恵んでくれることを期待している。

さて、すっかり話は逸れたがはあちゅうさんである。最近ではすっかりフェミニスト気取りで最近覚えた「ホモソ」という単語を連呼するbotみたいになってるはあちゅうさんである。ホモソ批判を重ねているが、その構造にどっぷり浸かって加担し続けてきたのは他ならぬお前自身だし、今もなお誰か見下す対象を見つけてとにかく排除しようとするホモソな姿勢はしっかり堅持しているように見えるはあちゅうさんである。フェミニズムを標榜するもその情報源がSNSとかのお手軽なものばかりで体系的に学んではいないのが随所から透けて見えてしまうはあちゅうさんである。

さんざん書いたがやはり誕生日はめでたい。いくつになったのかすら知らないが、まあ何歳かになったんだろう。めでたいことである。歳も重ねたことだし、今後はもう別れた夫の話をいろんなところで吹聴して小銭を稼いだりするなどの愚行は止めにして、真面目に生きていってもらいたいものである。その行状を目にしてもわたしの記憶には一切残らないのだが、今後の活躍を切に願ってやまない。お誕生日、おめでとうございます。


こいつ、載ってねえじゃん…

で、はあちゅうの誕生日なんかそんなもんはどうだっていいのだ。「有名人 1月22日」でググッて上の方に出てくるページを開いたが、そこにこいつの名前などないのだ。「脳みそ夫」(マジで誰だよこいつ)でさえあるというのに。こんな無名人のオワコンインフルエンサーが誕生日を迎えようと命日を迎えようと、知ったこっちゃない。
文中でも幾度となく言及しているが、再来月にはわたしの誕生日がやって来る。めでたい。めでたすぎる。こんな圧倒的なめでたさを前にして、お金を恵んでくれない人がいるなんてとても思えない。ということで、お金を恵んでください。お願いします。お金がほしいのです。そのお金でわたしはケーキなどを食したいのです。どうかどうかお願いいたします。

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