見出し画像

「徳川四天王」本多忠勝

■『朝日日本歴史人物事典』「本多忠勝」

■『朝日日本歴史人物事典』「本多忠勝」(朝日新聞出版)
 安土桃山・江戸時代初期の武将,大名。幼名鍋之助、のち平八郎、中務大輔と称した。本多忠高の長男。母は植村新六郎氏義の娘。三河国(愛知県)に生まれ、父と同じく徳川家康に仕え、永禄3(1560)年に13歳で尾張国大高城の攻略戦に初陣。そののち三河一向一揆、姉川の戦、三方ケ原の戦、長篠の戦、高天神の戦など家康一代の間の主要な戦いにおいて抜群の戦功をあげ、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とならんで徳川四天王のひとりと称された。天正10(1582)年の本能寺の変に際しては、堺方面を遊歴していて進退に迷う家康に進言して岡崎帰城を勧め、伊賀越えの危地を切り抜けて無事帰還させた。同18(1590)年の関東入部のおりには上総国(千葉県)大多喜10万石を給される。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では、本多家の本隊は嫡子の忠政が率いて徳川秀忠のもとで真田昌幸の守る信州上田城の攻撃に向かい、忠勝は東海道方面の東軍の軍目付として小姓の者400名余を引き連れて同合戦に臨んだ。この戦で忠勝ははじめ家康の本陣近くにあって作戦に参画していたが、戦況が東軍に不利となるや自ら前線に赴いて全軍の進退を指揮し、また供の兵と共に敵陣に数度切り込んで獅子奮迅の働きをなした。東軍の福島正則が合戦後に、忠勝の用兵の妙を絶賛したことが伝えられている。翌6年に東海道の要地である伊勢国桑名に10万石のままで所替えとなり,忠勝に従って同合戦で働いた次男忠朝に大多喜5万石が新規に給され,そののちの本多一族の繁栄の基を形成した。忠勝は初陣以来57回の戦を経験しながら、身に傷跡をとどめなかったと伝えられているが、彼こそ古今無双の勇士の名に恥じない武将であった。桑名において卒去。歳63。法号は長誉良信西岸寺。(笠谷和比古)

1.出自


 本多氏は、藤原北家兼通の後裔・藤原秀豊が、豊後日高郡本田郷(「本田」は「新田」の対義語で、「以前からあった田」の意)を領したことから「本田氏」と称したことに始まるという。
 南北朝時代、本田助定は、足利尊氏に従い、戦功により、尾張国横根郡と粟飯原郡の地頭となり、室町幕府の奉行衆を務めた後、平八郎助時が三河国に移住した。
 以上が通説であるが、疑問点が多い。

 本多氏の有名人には、「三河三奉行」の「伊奈本多」本多作左衛門重次(「鬼作左」)、「徳川四天王」の本多平八郎忠勝、徳川家康の参謀の本多正信がいる。近世には大名13家、旗本45家を出し、本多忠勝の「平八郎家」が宗家とされるが、本多正信の家を宗家とする説もある。

画像10


植村氏義┬氏明【出羽守家】─家存…
    ├泰基【土佐守家】─泰忠…
    └小夜
       ‖─本多忠勝─忠政…
本多助時…忠高

 本多忠勝の母は、植村氏義の娘・小夜である。上村氏は、遠江国上村の土岐島田氏で、矢作城主の土岐島田氏を頼って三河国に来ると、本郷城(愛知県岡崎市東本郷北浦。西郷氏の本拠地・本郷(岡崎市明大寺町本郷)とは矢作川を挟んで対岸)を築いて「植村氏」と表記を新ためた。
 植村氏の有名人には、松平清康(徳川家康の祖父)、松平広忠(徳川家康の父)の2代に亘って近侍した植村氏明(栄安、家次)がいる。2人の主君の暗殺の現場に立ち会い、2度とも暗殺者を即座に斬り捨てている。(そのため、暗殺の動機は不明のままである。)

 本多忠勝の父方の本多氏も、母方の植村氏も、三河譜代(安祥七譜代)の名家である。

■『柳営秘鑑』「御普代之列」
三河安祥の七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座、
大久保、本多(元来「田」に作。中興に至て美濃守故有之「多」に改む)。
阿部、石川、青山、植村、西口、いろいろな右七家を云。
又は、或は、酒井、大久保、本多、大須賀(家筋無)、榊原、平岩、植村共いえり。
【大意】徳川家臣で最古参の「安祥七譜代」とは、酒井氏は譜代上座(家老家)で別格で、大久保、本多(元は「本田」であったが、訳合って美濃守が「本多」に変えた)、阿部、石川、青山、植村、西口の7家を指す。別説としては、酒井、大久保、本多、大須賀(絶家)、榊原、平岩、植村の7家を指す。

2.風貌

画像1


 ──生涯戦うこと57度。されど、かすり傷一つ無し。

 「ただ勝つのみ」という願いを込めて名付けられた本多平八郎忠勝といえば、「鹿角脇立兜」に「金箔押の大数珠」、そして、「天下三名槍」蜻蛉切ですね。

■『真書太閤記』
本田平八郎忠勝は黒革おどし大荒目の鎧に鹿角の兜を猪首に着なし、三尺二寸の太刀に、一尺八寸の脇差を十文字にさし、鹿毛の馬の太くたくましく丈八寸にあまれるに黒鞍置き浅黄のおしかけ浅黄段の手綱に、田原正真の鍛へたる槍の穂先一尺三寸柄長九尺六寸なるを握そへてぞ乗りたりけり。

※本多忠勝の愛刀は「稲剪りの大刀」。愛槍は「天下三名槍」蜻蛉切。愛馬の「三国黒」(「三国黒毛」とも)は、徳川秀忠から贈られた馬。「関ケ原の戦い」で、島津軍の銃撃により死亡。鞍は「海無鞍」と呼ばれる形式の「牛人形鞍」。「三国黒」の忘れ形見として、家臣・原田弥之助が持ち帰った。鐙は「一本杉鐙」。

(1)鹿角脇立兜

画像3


 伊賀八幡宮(愛知県岡崎市伊賀町東郷中)の由緒書によると、伊賀八幡宮は、松平4代親忠が、伊賀国の八幡宮から八幡神を勧請して、安祥松平家の産土社として建てた神社で、代々の松平宗主を助けてきたという。

・当時、伊賀国に八幡宮は無く、「伊賀」は郷名(『和名類聚抄』の三河国額田郡位賀郷)である。
・松平4代親忠は、安祥松平初代であり、この時は松平宗家4代ではなかったので、六所神社を産土社にしなかったのであろう。
・「八幡神」とは、応神天皇、神功皇后(応神天皇の母)、姫大神(正体不明。一応、宗像三女神)の「八幡三神」を指すが、伊賀八幡宮の御祭神は、応神天皇、仲哀天皇(応神天皇の父)、神功皇后、徳川家康である。

 由緒書には、「桶狭間の戦い」の後、鹿を遣わして、松平元康(後の徳川家康)に矢作川の渡河点を教えたとある。その鹿を見つけたのが本多忠勝(一説に石川数正。石川氏は、松平初代親氏からの家臣だと言うが、出奔したので「安祥七譜代」に加えられず、業績も秘されている)で、本多忠勝は、伊賀八幡宮の神主・柴田因幡に兜の鹿角脇立の制作を依頼すると、神主は、伊賀八幡宮の御札を貼り合わせ、黒漆を塗って制作したという。一説に、本多忠勝が伊賀八幡宮へ行くと、神主が鹿の角を作っており、「夢で、鹿の角を作るようにと八幡神に告げられたので作っている」と言うので、貰い受けて、兜に付けたとも。
 なお、「金箔押の大数珠」は、倒した敵を弔うためだそうです。

★伊賀八幡宮公式サイト
http://www.igahachimanguu.com/

(2)蜻蛉切


 本多広孝が田原城主(在任期間1565-1577)になると、大和手掻派の手掻包吉を大和国から呼び寄せた。手掻包吉は「三河文殊派」を立ち上げ、弟子を募集した。弟子の中で最も優秀だったのが、田原で酒造業を営んでいた田中氏の息子・田中久兵衛正真で、息子がいなかった手掻包吉は、長女と結婚させて三河文殊派を継がせた。この田中正真が「蜻蛉切」を鍛えた藤原正真である。(後に田中家は、田原で薬種業を始め、刀工の文殊家を継いだのは五男・久兵衛のみで、戸田忠昌の天草転封(1664年)に伴い、天草に移った。)
 藤原正真の生年は、本多忠勝と同じ天文17年(1548年)であり、没年は慶長16年(1611年)8月22日である。ネットには「藤原正真は、地域的にも、作風的にも、年代的にも村正一派、少なくとも、村正とは技術的交流があった」とあるが、専門家は「技術的な共通点は全く見られない。ネットの記事は、気を引くように有名人の名を出して、面白おかしく書いているのであろう」とのこと。

画像2

ここから先は

2,570字 / 6画像

¥ 100

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。