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第20回の再放送を観た。

1.「藤原秀衡の舞」の意味は?

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 芸術は難しい。
 東京オリンピックの開会式では、舞台『未練の幽霊と怪物』で、新国立競技場の設計案を撤回された故・ザハ・ハディド氏の役を演じた森山未來氏が白装束姿で現れ、新型コロナウィルスの犠牲となった人たちへの追悼ダンス(コンテンポラリー・ダンス)披露されたが、1つ1つの動きの意味は分からなかった。

今回の藤原秀衡(舞踏家・田中泯氏)の亡霊の舞の意味って???
①畑の土をすくうもこぼれる。 :残念だが命運は尽きた。
②天を指す。
         :先に天国で待ってるぞ。
かな?
SNSでは「天国への誘い」であり、死期を悟った源義経は「ここらが潮時」と郷御前に伝えたとする。
※「潮時」(ある事をするためのチャンス)ではなく、「潮目」(世間(ここでは奥州藤原氏)の動向の転換点)ではないかという。
https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/kotoba/kotoba_003.html

 私は、岩手県出身の歌人・石川啄木の『一握の砂』を思い出した。もちろん、藤原秀衡は石川啄木を知らない。しかし、田中泯氏はご存知であろう。『一握の砂』の
いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
「さばかりの事に死ぬるや」「さばかりの事に生くるや」止せ止せ問答
こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ

という俳句の世界観の舞かなと。平家を倒して歴史に名を刻んだので、もう十分だ、よくやったという舞かなと。

  頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
  いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに
  ひと夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも
  砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
  いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
  しっとりとなみだを吸へる砂の玉なみだは重きものにしあるかな
  大という字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり
  目さまして猶起き出でぬ児の癖はかなしき癖ぞ母よ咎むな
  ひと塊の土に涎し泣く母の肖顔つくりぬかなしくもあるか
  飄然と家を出でては飄然と帰りし癖よ友はわらへど
  こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ
  なみだなみだ不思議なるかなそれをもて洗へば心戯けたくなれり
  森の奥より銃声聞ゆあはれあはれ自ら死ぬる音のよろしさ
  「さばかりの事に死ぬるや」「さばかりの事に生くるや」止せ止せ問答
  何処やらに沢山の人があらそひて鬮引くごとしわれも引きたし
  かなしきは飽くなき利己の一念を持てあましたる男にありけり
  手も足も室いっぱいに投げ出してやがて静かに起きかへるかな
  腕拱みてこのごろ思ふ大いなる敵目の前に躍り出でよと
  手が白く且つ大なりき非凡なる人といはるる男に会ひしに
  こころよく人を讃めてみたくなりにけり利己の心に倦めるさびしさ
  高きより飛びおりるごとき心もてこの一生を終るすべなきか
  この日頃ひそかに胸にやどりたる悔ありわれを笑はしめざり
  へつらひを聞けば腹立つわがこころあまりに我を知るがかなしき
  非凡なる人のごとくにふるまへる後のさびしさは何にかたぐへむ
  大いなる彼の身体が憎かりきその前にゆきて物を言ふ時
  気の変る人に仕へてつくづくとわが世がいやになりにけるかな
  こそこその話がやがて高くなりピストル鳴りて人生終る
  あまりある才を抱きて妻のためおもひわづらふ友をかなしむ
  はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
  男とうまれ男と交り負けてをりかるがゆゑにや秋が身に沁む
  今は亡き姉の恋人のおとうととなかよくせしをかなしと思ふ
  かぎりなき知識の慾に燃ゆる眼を姉は傷みき人恋ふるかと
  自が才に身をあやまちし人のことかたりきかせし師もありしかな
  そのかみの学校一のなまけ者今は真面目にはたらきて居り
  田舎めく旅の姿を三日ばかり都に曝しかへる友かな
  先んじて恋のあまさとかなしさを知りし我なり先んじて老ゆ
  死ぬまでに一度会はむと言ひやらば君もかすかにうなづくらむか
  時として君を思へば安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
  わかれ来て年を重ねて年ごとに恋しくなれる君にしあるかな
  ゆゑもなく憎みし友といつしかに親しくなりて秋の暮れゆく
  おそ秋の空気を三尺四方ばかり吸ひてわが児の死にゆきしかな
  底知れぬ謎に対ひてあるごとし死児のひたひにまたも手をやる
  かなしみのつよくいたらぬさびしさよわが児のからだ冷えてゆけども
  かなしくも夜明くるまでは残りゐぬ息きれし児の肌のぬくもり
                     (石川啄木『一握の砂』)

 源義経が耕した畑には、主を亡くして夏草が生えるのだろう。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打ち敷きて、時の移るまで泪を落し侍りぬ。

  夏草や兵どもが夢の跡

2.「静の舞」

 静御前役はダンサー・石橋静河さん。舞踏家・田中泯氏とではなく、女優・石原さとみさんと比較されている。


■『吾妻鏡』「文治2年(1186年)4月8日」条
 文治二年四月大八日乙夘。二品并御臺所御參鶴岳宮、以次被召出靜女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之處、「申病痾」之由不參、「於身不屑者者、雖不能左右、爲豫州妾、忽出揚焉砌之條、頗耻辱」之由、日來内々雖澁申之。彼既天下名仁也。「適參向、歸洛在近、不見其藝者無念」由、御臺所頻以令勸申給之間被召之。「偏可備大菩薩冥感」之旨、被仰云々。
 「近日只有別緒之愁。更無舞曲之業」由、臨座猶固辞。然而貴命及再三之間、憖廻白雪之袖。發黄竹之歌。左衛門尉祐經鼓。是生數代勇士之家、雖繼楯戟之塵、歴一臈上日之職、自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郎重忠爲銅拍子。靜先吟出歌云。
  吉野山峯の白雪ふみ分て入にし人の跡そこひしき
次歌別物曲之後、又、吟和歌云。
  しつやしつしつのをたまきくりかはし昔を今になすよしもかな
誠是社壇之壯觀、梁塵殆可動。上下皆催興感。

(文治2年(1186年)4月8日。源頼朝と御台所(北条政子)は、鶴岡八幡宮を参詣した。そのついでに、静御前を(当時は舞殿がなかったので)回廊に呼び出した。これは、舞を奉納させるためである。この事は、前々から命じていたのであるが、「病気だ」と言って断っていた。「囚人なので、素直に言うことを聞かない訳にはいかないが、源義経の妾だとの掲焉(けちえん。目立つさま)は大きな恥辱である」として、日頃から渋っていたが、彼女は既に「名人」として天下に知られていた。「たまたま鎌倉へ来て、近いうちに京都へ帰るのに、その芸を見ないのでは残念である」と、御台所(北条政子)が頻りに言うので、承諾した。「絶対に(鶴岡八幡宮の)八幡大菩薩も気に入られるであろう」と言ったという。
「最近、人と別れるという悲しいことがあり、踊る気になれない」と、座に臨んだのに辞退した。しかし、何度も命令されたので、嫌々ながらも、白雪のような真っ白な袖をひるがえして、(北条政子がリクエストした穆王の)「黄竹詩」を謡った。工藤祐経が鼓を打った。彼は、数代続く武勇の家に生まれ、武芸を継いでいたが、一臈(六位の蔵人)として朝廷で勤務していた時、音楽に関わっていたので、この役を与えられたのであろうか。畠山重忠は、銅拍子(銅製の小型のシンバル)を打った。静御前は、先ず、
  吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と和歌を吟じ、次に
  しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
と吟じた。
誠に社殿の有様は(八幡大菩薩が共鳴し)梁の塵が(振動で)殆ど全てが動いた。身分の高い人も、低い人も感動した。)※2005年NHK大河ドラマ『義経』では、感応した八幡大菩薩は神風を起こし、4月には無いはずの紅葉を舞わせたとした。





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