2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第33回)「修善寺」
建仁3年(1203年)
9月 1日 源頼家、危篤。祈祷も効果無し。
9月 2日 比企能員、討たれる(「比企氏の乱」)。
9月 5日 源頼家、病気から少し回復。「比企氏の乱」を知り、激怒。
9月 6日 仁田忠常、加藤景廉に討たれる。
9月 7日 源頼家、出家。朝廷、千幡を征夷大将軍に任命する。
9月10日 次の将軍は千幡に決定する。
9月15日 朝廷から、千幡の征夷大将軍任命書が鎌倉に届く。
9月29日 源頼家、伊豆国修善寺へ。
10月3日 武蔵守・平賀朝雅、京都守護へ。武蔵守は舅・北条時政が代行。
10月8日 千幡、北条時政の名越亭で元服。
10月9日 北条時政、大江広元と並んで政所別当に就任する。夜に御弓始。
11月3日 一幡、討たれる。
11月6日 伊豆国修善寺の前将軍・源頼家からの手紙が到着。
11月10日 三浦義村、伊豆国修善寺から鎌倉に帰還。
建仁4年/元久元年(1204年)
1月12日 将軍・源実朝、読書始。
2月20日 「建仁」から「元久」へ改元。
3月 6日 北条義時、相模守に任じられる。
7月18日 前将軍・源頼家、伊豆国修善寺で死去。
8月 4日 将軍・源実朝、足利義兼の娘との縁談を断る。
10月14日 将軍・源実朝の正室・坊門信清の娘を迎えに上洛。
11月5日 北条政範、上洛の途中、病にかかり、京都で死去する。
12月10日 将軍・源実朝の正室・坊門信清の娘、鎌倉に到着。
■9月29日、源頼家、伊豆国修善寺へ。
源頼家を助けようとする親頼家派(反北条派)の襲撃を恐れたのか、移動は、女騎馬武者15人を含む300人以上の大行列!!!
「女騎馬武者」って? 最初は侍女に鎧を着せただけ(今で言えば「危ないからこれを着ろ」と防弾チョッキを渡すようなもの)かと思ったが、「騎馬」ってことは、乗馬が出来たわけで、巴御前のような人物が15人もいた?
この従兵たちは、修善寺までの護衛なのか、それとも、修善寺に一緒に住むのか?(11月6日に源頼家から「退屈なので近習をよこして欲しい」「安達景盛を私に引き渡し、処分させて欲しい」という書状が届いたが、却下された。三浦義村が使者として修善寺に行き、却下されたことを告げ、今後は、こういった書状を送ることを控えるよう忠告し、11月10日に鎌倉に戻った。ということは、13人の近習は修善寺にいなかった?)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)9月29日」条
建仁三年九月大廿九日甲午。霽。左金吾禪室〔前將軍〕、令下向伊豆國修禪寺給。巳尅、進發給。先陣随兵百騎。次、女騎十五騎。次、神輿三帳。次、小舎人童一人〔負征箭。騎馬〕。後陣随兵二百餘騎也。
(建仁3年(1203年)9月29日。晴れ。源左衛門督頼家(前将軍)を伊豆国修善寺へ下向させた。巳の刻(午前10時頃)に(鎌倉から)出発した。先陣の従兵は、100人。次に女騎馬武者15人。次に神輿が三台。次に小舎人の少年1人(矢を背負って馬に乗る)。後陣の従兵は200人である。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)11月16日」条
建仁三年十一月大六日庚午。左金吾禪室、自伊豆國、被進御書於尼御臺所并將軍家。「是深山幽棲、今更難忍徒然、日來所召仕近習之輩欲被免參入。又、於安達右衛門尉景盛者、申請之、可加勘發」之旨被載之。仍有其沙汰。「御所望條々旁不可然。其上被通御書事、向後可被停止」之趣、今日以三浦兵衛尉義村爲御使、被申送之云々。
(建仁3年(1203年)11月16日。源頼家が、伊豆国から、手紙を北条政子と源実朝へよこした。「深い山に幽閉され、退屈なので、以前の近習をよこすよう許可して欲しい。また、安達景盛を私に引き渡し、処分させて欲しい」と書かれていた。その沙汰があった。「望む項目は、全て却下。その上、今後は手紙をよこすことも禁止する」と、今日、三浦義村が使いとして申し送られるという。)
■建仁3年(1203年)10月9日、源実朝の政所始
「政所別当」ではなく、「執権別当」の北条時政が「相模国下文」を代読した。(このドラマでの「執権」の定義は、「行政の筆頭人」である。)
下 相模国
仰参箇條
一、神事
右神者依人之敬増威、人者依神之徳添運、早任例可令勤行神事矣。
一、勤農事
右所之興複民之凋澤偏有勤農之政、早萬事止鳴可令榮作田代矣。
一、乃貢事
右云有限之所当云恒例之召物不泥乃貢早可令進済矣。
以前條々所仰如件。住人宜承知勿〔不可〕違〔違失〕矣。故以下〔故下〕。
建仁三年十月九日
※源実朝の袖判がないけど・・・まずは、北条時政が読み上げ、了承したら書くのかな? なお、源実朝の花押の初見は、北条時政失脚後の元久2年(1205年)閏7月である。
あと、書止め文言は、下知文なら「鎌倉殿御下知如件」(鎌倉殿の御下知、件(くだん)の如し)であるが、吉書だからか「故下」(故に下す)である。
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)10月9日」条
建仁三年十月小九日甲辰。快霽。今日、將軍家、政所始也。午尅、別當遠州、廣元朝臣已下、家司(各布衣)等着政所。民部丞行光、書吉書。令圖書允淸定成返抄、遠州持參吉書於御前給。無出御之儀、於簾中故以覽之。遠州皈着本所之後、有垸飯盃酒之儀。
其後、始着甲冑。又、乘馬給。遠州被奉扶持之。小山左衛門尉朝政、足立左衛門尉遠元等、着甲冑母廬等、次第故實、執權悉奉授之云々。
及晩、有御弓始。北條五郎爲奉行、圖書允淸定注矢員。和田左衛門尉義盛献的云々。
射手
一番 和田左衛門尉義盛 海野小太郎幸氏
二番 榛谷四郎重朝 望月三郎重隆
三番 愛甲三郎季隆 市河五郎行重
四番 工藤小次郎行光 藤澤四郎淸親
五番 小山七郎朝光 和田平太胤長
(建仁3年(1203年)10月9日。快晴。今日は、将軍・源実朝の政所始(初めて政務を行う儀式)があった。午の刻(昼12時)に、政所別当の北条遠江守時政、大江広元以下の家司(皆、平服)達が、政所(の席)に着いた。二階堂行光が、吉書を書いた。清原図書允清定が受け取り、北条時政が将軍・源実朝の前へ持って行った。(将軍・源実朝は、)御簾から出ないで、御簾の中で見ていた。北条時政が元の席へ戻った後、食事と乾杯の儀があった。
その後、鎧始(生まれて初めて鎧兜を身に纏う儀式)があった。また、(鎧兜を身に纏ったまま)馬に乗った。北條時政が補助した。小山朝政、足立遠元が、鎧兜、母衣等の纏い方の故実を全て教えたという。
夜になって、弓始(新将軍に誕生後、初めての弓を射る儀式)があった。北条時房が責任者で、清原清定が記録係であった。和田義盛が的を献上した(用意した)という。
射手は、
一番手が、和田義盛と海野幸氏で、
二番手が、榛谷重朝と望月重隆で、
三番手が、愛甲季隆と市河行重で、
四番手が、工藤行光と藤沢清親で、
五番手が、小山朝光と和田胤長であった。)
※吉書(吉日を選んで慶賀のしるしに発給する文書)を鎌倉殿の御前に持参し、披露する役は、源頼朝、源頼家の時は大江広元が勤めたが、源実朝の時は北条時政が勤めた。これは、北条時政が執権(政所のトップ)になったことを意味する。
■建仁4年(1204年)1月12日、源実朝の読書始
源頼家の教育係は、後鳥羽上皇が送り込んだ源仲章である。
※孝書13経:『易経(周易)』『書経(尚書)』『詩経(毛詩)』『周礼』『礼記』『儀礼』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『論語』『孝経』『爾雅』『孟子』という経書(儒教で重視される文献の総称)。
■『吾妻鑑』「建仁4年(1204年)1月12日」条
建仁四年正月大十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經〕始。相摸權守、爲御侍讀。此儒依無殊文章、雖無才名之譽、好集書籍、詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。
(建仁4年(1204年)1月12日。晴れ。将軍・源実朝の読書(孝経)始であった。源相模権守仲章が共に読んだ。この儒学の講師は、殊更文章を発表したわけではないので、「才能がある」と有名ではないが、好きで書籍を集め、百家九流(中国の諸子百家の9種の流派)に精通していたという。読み合わせの後、(源仲章は、)砂金50両と刀を一振り賜った。)
■猿楽師
源頼家は、退屈なので、京都から猿楽師を呼んでは、猿楽を楽しんでいた。実はこの猿楽師、源頼家と後鳥羽上皇とを結ぶ使者であった。
■一幡の墓
千鶴丸のように、川の淵に沈めたのかと思ったら、墓(塚)が築かれていた。その塚の小ささから、埋められているのは子供だと分かる。(普通、塚の上には石を置くんですけどね。)
■源頼家の暗殺
さすがに浴室での暗殺はコンプライアンス的にまずいのか、暗殺の場所が『愚管抄』とは異なる。
善児とトウは、奏者を殺して入れ替わっており、鶴丸が死体を見つけ、北条泰時が演奏していない奏者を見つけて、刀を手に近づくと、乱闘となった。(脚本の矛盾:源頼家は「北条の者には会わぬ」と母・北条政子が訪ねていっても会わなかったが、なぜか北条泰時には会った。
「あれはかつての私なんだ。あれは私なんだ」
北条義時は、源頼家に逃げるよう伝えるために修善寺へ向かった北条泰時を止めないばかりか、この裏切り者を善児には「殺すな」と伝えた。北条時房が北条義時に「北条泰時が出来ない事は(悪事は)自分が引き受ける」と言っていたが、彼には荷が重い。悪事担当は北条義時で、善行担当が北条泰時である。ただ、運慶に言わせれば、救いは、北条義時は完全に悪堕ちしておらず、悩んでいる段階だという。なお、願成就院の運慶作毘沙門天像は20代の北条義時がモデルとされる。)
さて、源頼家は武芸の達人だったという。「一幡」の源頼家のお手製の位牌が気になった善児は刺されるが、善児しか眼中になかった源頼家は、トウに討たれた。そして、
「ずっとこの時を待っていた。父のかたき! 母の・・・かたき・・・」
トウは善児にとどめを刺した。トウは、かたき討ちをしたいと思っても、善児が強すぎて討てないと悟り、修行して、この時を待っていたのだ。
『鎌倉殿の13人』のサブタイトルはダブルミーニングが多い。今回の「修善寺」は、「源範頼が善児に殺された修善寺」と「源頼家が善児に殺された修善寺」のダブルミーニングかと思ったがそうではなかった。「トウの両親が善児に殺された修善寺」と「善児がトウに殺された修善寺」であった。そして、善児が血に染まる「朱善児」であり、最終回「終善児」であった。
さて、源頼家を討った北条氏。次なる敵は後鳥羽上皇だ!←まだ早いって。
その前に、畠山重忠・・・。
それにしても、あの髑髏、源頼朝の挙兵の時に使われて終わりだと思いましたが、しつこいほどに出てきますね。多分、公暁が源実朝を殺した後、この髑髏を手にし、「これで鎌倉殿は」と言った瞬間、後ろからトウが公暁を刺し、髑髏が公暁の手から落ちて割れる、という演出になるのではないかと。
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▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
北条四郎時政┬長男・三郎宗時 (片岡愛之助) :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子) :母・伊東祐親の娘
├次男・江間小四郎義時 (小栗旬) :母・伊東祐親の娘
├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ) :母・伊東祐親の娘
├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依) :母・?
├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花) :母・?
├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史) :母・?
├?女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子) :母・りく
├?女・?=滋野井実宣妻(?) :母・りく=牧宗親の妹
├?女・?=宇都宮頼綱室(?) :母・りく=牧宗親の妹
├四男・遠江左馬助政範 (中川翼):母・りく=牧宗親の妹
├?女・?=坊門忠清室(?):母・不明
├?女・?=河野通信室(?):母・不明
└?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明
▲北条義時の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
北条義時──┬長男・金剛→頼時→泰時(坂口健太郎):母・伊東祐親の娘
(小栗旬) ├次男・朝時(?):母・比奈=比企朝宗の娘
├三男・重時(?):母・比奈=比企朝宗の娘
├長女・竹殿=大江親広室(?):母・比奈=比企朝宗の娘
├四男・有時(?):母・?=伊佐朝政の娘
├五男・政村(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
├六男・実泰(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
├七男・時尚(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
├次女・?=一条実雅室(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
├?女・?=一条実有室(?):母・不明
├?女・?=中原季時室(?):母・不明
├?女・?=一条能基室(?):母・不明
├?女・?=戸次重秀室(?):母・不明
└?女・?=佐々木信綱室(?):母・不明
▲源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
源頼朝──┬千鶴【溺死】 (太田恵晴) :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋) ├長女・一幡(大姫)(南沙良) :母・政子=北条時政の娘
├長男・万寿→頼家 (金子大地) :母・政子=北条時政の娘
├能寛→貞暁 (?) :母・?=常陸念西の娘
├次女・三幡(乙姫)(太田結乃) :母・政子=北条時政の娘
└次男・千幡→実朝 (柿澤勇人) :母・政子=北条時政の娘
▲源頼家の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
源頼家───┬長男・一幡 (相澤壮太):母・せつ =比企能員の娘
(金子大地) ├次男・善哉→公暁 (寛一郎) :母・つつじ=賀茂重長の娘
├三男・千寿丸→栄実(?) :母・?=一品房昌寛の娘
├長女・竹御所 (?) :母・?=源義仲の娘
└四男・?→禅暁 (?) :母・?=一品房昌寛の娘
▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
▲参考記事
・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
・呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・大迫秀樹「「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代」
https://gentosha-go.com/category/t966_1・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫 「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac
▲参考文献
・安田元久 『人物叢書 北条義時』 (吉川弘文館) 1986/ 3/ 1
・元木泰雄 『源頼朝』 (中公新書) 2019/ 1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/ 4/11
・濱田浩一郎『北条義時』 (星海社新書) 2021/ 6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』 (NHK出版新書) 2021/ 9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』 (講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』 (中公新書) 2021/12/21
・大迫秀樹 『「鎌倉殿」登場!』 (日本能率協会) 2021/12/22
・山本みなみ『史伝 北条義時』 (小学館) 2021/12/23
・山本みなみ『史伝 北条政子』 (NHK出版新書) 2022/ 5/10
・坂井孝一 『鎌倉殿をめぐる人びと』(NHK出版新書) 2022/ 7/10
・毛利豊史「源実朝試論」
https://core.ac.uk/download/pdf/80536497.pdf
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