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「西の八坂、東の津島」小考 八坂編

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 八坂神社の祇園祭の起源は、『祇園社本縁録』に「貞観11年天下大疫の時、宝祚降永、人民安全、疫病消除鎮護の為に、卜部日良麻呂、勅を奉じ、6月7日 、66本の矛を建て、長さ2丈許、同14日、洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、以て祭る。是を祇園御霊会と号す。爾来毎歳6月7日、14日、恒例と為す亅(祇園祭は、古くは「祇園御霊会」と呼ばれ、平安時代の貞観11年(869年)、「天下大疫」(疫病の全国的な流行)時に祇園精舎の神・牛頭天王を祀り、神泉苑へと神輿を送ったことが起源である)とあるようである。(「あるようである」というのは、『祇園社本縁録』は失われ、他の本の引用文でしか見ることができないからである。)
 66基というのは全国の国の数である。さすが首都・京都だけに山城国だけのことを考えているわけではない。ちなみに現在の山鉾巡行は47基ではなく33基(7月17日の前祭に23基、7月24日の後祭に10基)である。

「西の八坂、東の津島」というからには、津島神社の創始のみを調べるのは片手落ちであろうが、津島神社の由緒は、「牛頭天王(素戔嗚尊)が対馬国から尾張国藤浪に来た。そこに住んでいた蘇民将来の子孫が祀り、藤浪は津島と名を変えた」と単純明快であるのに対し、祇園への信仰の伝播ルートは複雑である。

 祇園へ信仰の伝播ルートは、

疫隈國社(現・素戔嗚神社。広島県福山市新市町戸手)
 ↓
祇園神社(兵庫県神戸市兵庫区上祇園町)
 ↓
廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山)
 ↓
北白川東光寺(岡崎神社。京都府京都市左京区岡崎東天王町)
 ↓
祇園感神院八坂神社。京都府京都市東山区祇園町北側)

らしい。

■「祇園祭の由来」(備後一宮・素盞嗚神社の石碑)
 当神社例大祭「祇園祭」が、いつ頃始まったものかを示す古文書は残念ながら現存せず、その始まりの時期は定かではありません。
 奈良時代の初頭より我が国では疫病の流行や大地震により数多くの人々が亡くなり「死」に対して強烈な畏怖心をいだくようになりました。当時、疫病の流行や自然災害は、この世に恨みを持って亡くなった人たちの祟りによるものと考えられました。そこで、いつ襲い来るか計り知れぬ災害から逃れ、疫病に罹らぬようにするため、死者の怨霊を鎮めなだめる儀式「御霊会(ごりょうえ)」が行われるようになりました。
 これが後に「祇園信仰=祇園祭」へとつながっていきます。「祇園信仰」とは、お釈迦様が修行された「祇園精舎」を護る「牛頭天王(ごずてんのう)」と高天原を追われてのち出雲国で「やまたのおろち」を退治された「素盞嗚尊」を共に祀る信仰です。
 つまり外国(とつくに)の誠に恐ろしく力の強い仏様「牛頭天王」と我が国最強の荒ぶる神様「素盞嗚尊」を一体化し、より強力な神格にして祇園社の主祭神「祇園神」としたのです。
 この神の絶大なる霊威を以てすれば、いかなる怨霊の祟りをも鎮め、平穏な世を取り戻すことが出来ると考えられたのでした。
 各地に伝わる様々な伝承や資料からすると祇園信仰発祥の地はここ福山市新市町戸手に鎮座される「疫隈の國社(えのくまのくにつやしろ)」現在の素盞嗚神社であると考えられます。
 疫隈國社より播磨国明石浦(兵庫)-播磨国廣峯神社(姫路)-北白川東光寺(京都)に至り、祇園感神院(八坂神社)へと伝播していったことは明らかです。

 まとめれば、

◆素戔嗚尊の和魂:新羅→対馬国→紀伊国→伊勢国→尾張国藤浪(津島)
◆素戔嗚尊の荒魂:新羅→出雲国→吉備国→播磨国→山城国岡崎(祇園)

となるかな。

 また、祇園信仰=牛頭天王信仰であるが、この牛頭天王には、いくつもの顔がある。鍾馗にもなる。

仏教では武答天神王牛頭天王など10変化)、薬師如来。
神道では素戔嗚尊。
陰陽道では天道神と泰山府君。
天刑星(天形星)。
義浄三蔵訳『仏説武答天神王秘密心点如意蔵王陀羅尼経』
 凡そ天王、十種反身有り。第一に曰く武答天神王、第二に曰く牛頭天王、第三に曰く倶摩羅天王、第四に曰く蛇毒気神王、第五に曰く摩那天王、第六に曰く都藍天王、第七に曰く梵王、第八に曰く玉女、第九に曰く薬宝賢明王、第十は疫病神王なり。

 祇園社については、下掲の承平5年(935年)6月13日官符に「天神婆利女八王子、五間檜皮葺礼堂一宇」とある。天神は牛頭天王(武塔天神王)、婆利女は牛頭天王の妻、八王子は牛頭天王と婆利女の子であろうが、「天神」は、天津神・素戔嗚尊とも、天道神ともとれるし、「八王子」は素戔嗚尊と天照大神の五男三女神ともとれ、「天神」は玉虫色の名だといえよう。
 ちなみに、明治以後の八坂神社の御祭神は主祭神・素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神である。

中の座:牛頭天王 (武塔天神王)→素戔嗚尊
東の座:八王子         →八柱御子神
西の座:頗梨采女 (婆利女)  →櫛稲田姫命
               (神大市比売命と佐美良比売命を配祀)

※八王子(牛頭天王 (武塔天神王)と頗梨采女 (婆利女)の子)
 第1王子:相光天王   太歳神 本地は釈迦如来
 第2王子:魔王天王   大将軍 本地は文殊師利菩薩
 第3王子:倶魔羅天王  歳徳神 本地は弥勒菩薩
 第4王子:徳達神天王  歳末神 本地は観世音菩薩
 第5王子:羅侍天王   黄幡  本地は薬師如来
 第6王子:達尼漢天王  伏龍神 本地は普賢菩薩
 第7王子:侍神相天王  豹尾  本地は阿弥陀如来
 第8王子:宅相神摂天王 大隠神 本地は地蔵菩薩

※八柱御子神(素戔嗚尊の子)
・八島篠見神(やしまじぬみのかみ) :母は正室の櫛稲田姫命
・五十猛神(いたけるのかみ)    :母は正室の櫛稲田姫命
・大屋比売神(おおやひめのかみ)  :母は正室の櫛稲田姫命
・抓津比売神(つまつひめのかみ)  :母は正室の櫛稲田姫命
・大年神(おおとしのかみ)     :母は側室の神大市比売命
・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ):母は側室の神大市比売命
・大屋毘古神(おおやびこのかみ)  :母は側室の佐美良比売命
・須勢理毘売命(すせりびめのみこと):母は側室の佐美良比売命

■『二十二社註式』「祇園社」
 牛頭天皇、初て播磨国明石浦に垂迹し、広峯に移る。其の後、北白川東光寺に移る。其の後、人皇57代陽成院元慶年中、感神院に移る。
西間 本の御前。奇稲田姫垂迹。一名婆利女。一名少将井。脚摩乳、手摩乳の女。
中間 牛頭天皇。大政所と号す。進雄尊垂迹。
東間 虵毒気竜王の女。今の御前也。
 人皇61代朱雀院の承平5年6月13日の官符云ふに「観慶寺を以て定額寺と為す事を応ず。(字は祇園寺。)山城国愛宕郡八坂郷地に一町在り。檜皮葺三間堂一宇(庇四面に在り)。檜皮葺三間礼堂一宇(庇四面に在り)、薬師像一躰、脇士菩薩像二躰、観音像一躰、二王、毘頭盧一躰、大般若経一部六百巻を安置す。神殿五間檜皮葺一宇、天神、婆利女、八王子。五間檜皮葺礼堂一宇、右山城国解得偁、故に常住寺の十禅師伝燈大法師位円如、去る貞観年中、建立為し奉る也」と。
 或云ふ「昔。常住寺の十禅師円如大法師、託宣の依り、第56代清和天皇の貞観18年、山城国愛宕郡八坂郷樹下に移り奉る。其の後、藤原昭宣公、威験を感じ、台宇を壊運し精舎を建立す。今の社壇是れ也」と。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879424/406

【参考文献】

八坂神社社務所『八坂神社叢書1 八坂神社記録 上』
八坂神社社務所『八坂神社叢書2 八坂神社記録 下』
八坂神社社務所『八坂神社叢書3 八坂神社文書 上』
八坂神社社務所『八坂神社叢書4 八坂神社文書 下』
八坂神社文書編纂委員会『新修 八坂神社文書 中世篇』(臨川書店)2002
八坂神社文書編纂委員会『新編 八坂神社文書』(臨川書店)2014
八坂神社文書編纂委員会『新編 八坂神社記録』(臨川書店)2016
『神仏信仰事典シリーズ7   スサノオ信仰事典』 (戎光祥出版)2004
『神仏信仰事典シリーズ10 祇園信仰事典』        (戎光祥出版)2002
鈴木耕太郎『牛頭天王信仰の中世』(法藏館)2019
川村湊『増補新版 牛頭天王と蘇民将来伝説』(作品社)2021

・広嶺忠胤『牛頭天王』(広峯神社)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924431
・平田篤胤『牛頭天王暦神辯』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538628

◆『祇園牛頭天王緣起』(『続群書類従』)
◆『牛頭天王之祭文

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