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伊東家の人々


藤原維職━伊東家継┬先妻の子:長男・祐家〔狩野/伊東〕━祐親〔河津〕
         ├後妻の子:次男・祐継〔工藤/伊東〕━工藤祐経
         └後妻の子:三男・茂光〔狩野〕┬満江御前━曽我兄弟
                         └狩野宗茂

 伊東家は、伊東(伊豆国の東部)を領した豪族で、伊藤(伊豆国の藤原氏)ともいう。遠祖は藤原鎌足、始祖は藤原為憲で、藤原維職が伊豆国押領使として来て、狩野城を築いて狩野庄に土着したのが始まりだという。

 藤原維職の子・伊東家継(「工藤祐隆」とも)を長男(狩野城主)・伊東祐家が継いだ。
 伊東祐家が早世すると、伊東祐親が継ぐと思われたが、存命していた伊東家継は、次男(後妻にとっては長男)・工藤祐継が伊東祐継と名乗って伊東家や伊東荘を継ぐよう命じた。

 伊東祐継が亡くなった時、金石(後の工藤祐経)は、まだ9歳だったので、河津荘を領する河津祐親が後見人となった。

伊東祐家┬嫡養子:伊東(旧・工藤)祐継(死亡)━工藤祐経
    └伊東祐親┬長男:河津祐泰(室は満江御前)━曽我兄弟
         ├次男:伊東祐清
         ├長女:北条時政前室(死亡)
         ├次女:三浦義澄正室
         ├三女:万劫御前(工藤祐経室→土肥遠平室)
         └四女:八重姫━千鶴丸(死亡)

 金石(かないし)は元服して伊東祐経と名乗り、河津祐親の三女・万劫御前を娶り、大番役として3年間上洛して平重盛に仕えた。
 この在京期間、義理の父・河津祐親は、伊東祐経が継いだ伊東荘を押領して伊東祐親と名乗り、万劫御前に離縁させて土肥遠平に嫁がせた。
 押領に気付いた伊東祐経(工藤祐経)は、都で訴訟を繰り返すが、伊東祐親の根回しにより失敗に終わった。
 所領・伊東荘と妻・万劫御前を奪われた工藤祐経は、伊東祐親を怨み、1176年、伊東祐親&祐泰父子を襲撃すると、伊東祐親を討ち漏らすも、伊東祐親の嫡男・河津祐泰は殺せた。
 河津祐泰の子・一萬丸(後の曾我祐成)&箱王(後の曾我時致)兄弟は、母・満江御前(狩野茂光の娘。河津祐泰室)の再婚相手・曾我祐信のもとで成長し、仇討ちを計画する(『曽我物語』)。

※「日本三大仇討ち」
・曾我兄弟が、父の敵・工藤祐経を討った「曾我兄弟の仇討ち」
・渡辺数馬&荒木又右衛門が河合又五郎を討った「伊賀越えの仇討ち」
・赤穂浪士が吉良上野介を討った「赤穂浪士の討ち入り」(『忠臣蔵』)

※伊東祐親は、北条時政の前の源頼朝の監視者として知られる。
「父・左馬頭義朝は、右衞門督藤原信賴に賴まれ、謀叛に與して、淸盛の爲に没落して、東國に赴き、長田莊司に討たれ給ひぬ。賴朝は十四歳にして、彌平兵衞宗淸に生捕れ、殺さるべきに定りしを、池禪尼にたすけられ、伊豆國蛭が小嶋に流され、伊藤入道祐親が館におはします。祐親、是を殺しまゐらせんと計りければ、伊藤を忍び出て、北條時政を賴みて入り給ふ。時政、即ち我が娘政子を合せて婿とす」(『鎌倉北条九代記』)

※伊東四朗さんは伊東祐親の子孫だという。
・ファミリーヒストリー
「伊東四朗~思いがけず平氏と源氏 たどりついた喜劇の道」
https://tvpalog.blog.fc2.com/blog-entry-5771.html
伊東祐之さんは伊東祐清の子孫だという。
https://twitter.com/sukeyuki1173
https://twitter.com/terutakezai/status/1480082582167748610

★参考サイト:「伊東家の歴史館」
http://www.ito-ke.server-shared.com/

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