見出し画像

【覚書】下馬観音と慶雲廃寺

画像1


 在原業平が歌を詠んだという八橋の正確な場所は不明である。
 一説に落田中の松に馬を繋ぎ、業平池周辺の杜若を見て詠んだという。
 一説に慶雲寺(後の下馬観音)で下馬して糒を食べながら詠んだという。

 落田中(上の絵図の「八橋跡?」)は、「田んぼの中の窪地」の意で、水が溜まって湿地となり、水が8方に蜘蛛手のように流れ出していたという。現在はかきつ姫公園(愛知県知立市八橋町大流)になっている。
 慶雲寺は落田中の西にあった。上の絵図でいえば、落田中の下(画家がいる位置?)である。慶雲寺は廃寺となり、後身寺が別の場所に建てられた無量寺(明治以降は無量寿寺)である。
 下馬観音堂は、慶雲寺に祀られていた観音様を祀る御堂である。

 ──下馬観音(慶雲廃寺)について書いてある本はないものか?

と探していたら、知立市の資料ではなく、豊田市の資料に書いてあった。鎌倉街道・八橋宿駒場宿の中間にある慶雲廃寺(下馬観音)は、発掘された古瓦が知立市歴史民族資料館にあるので、知立市だと思い込んでいたが、其の後移転して、現在の下馬観音は豊田市にあるので、豊田市の資料に詳細が載っていたのである。

・慶雲寺:慶雲年間に鷹師山(鎌倉街道の北)に建立
→廃寺になり、観音様のみ鎌倉街道沿いの愛知県豊田市駒場町下馬に安置
→現在、観音様(下馬観音)は、鎌倉街道の北の観音堂に移動

※ネットサーフィンをしていたら、某記事の地図の愛知県豊田市駒場町下馬(鎌倉街道の南)に「慶雲寺跡」と書きこまれていたが、そこは「下馬観音跡」であり、「慶雲寺跡」(鎌倉街道の北)ではない。
※上の絵図の「下馬観音」は、「下馬観音」ではなく、「在原寺」だと思われる。

ここから先は

1,182字

¥ 500

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。