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雄々しくも立ち腹さばく甘利信康

 甘利氏の本貫地は、甘利郷(山梨県韮崎市旭町の甘利山甘利神社周辺)で、甘利信康の父・甘利虎泰は、「武田二十四将」「(武田信虎時代の)武田四天王」の1人です。御子孫に政治家の甘利明氏がおられます。

甘利虎泰┬甘利左衛門尉信忠(昌忠)─甘利左衛門尉信頼
    └甘利郷左衛門尉信康

 「長篠の戦い」の時、父・甘利虎泰は、天文17年(1548年)2月14日の「上田原の戦い」で戦死しており、兄・甘利信忠は、永禄10年(1567年)に死去していました。甘利信頼がまだ幼かったので、甘利信康は、「あまり衆」100人かかえる侍大将として、小荷駄奉行を務めていました。

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 「長篠の戦い」では、『甲陽軍鑑』に左翼の山県昌景隊に「あまり衆」が属していたとあるが、これは甘利信頼のことで、甘利信康は柳田前激戦地を担当していたという。
 武田軍の敗色が漂い、撤退を始めると、甘利信康は、
「この堀と馬防柵がなかったら、徳川家康の本陣を突き崩せたのに」
と、徳川&織田連合軍の陣城の築城に協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷(天王山の麓のダンゾウ屋敷)の門扉に寄りかかり、立ったまま切腹したという。

 柳田地区の住民は、武田軍に協力してくれるはずであったにもかかわらず、いざ戦の準備が始まると、徳川&織田連合軍の人夫となって堀を掘ったり、馬防柵を作ったりしたという。甘利信康は、柳田地区の住民の寝返りを恨み、
「この部落は絶対に発展させない」
と呪ってダンゾウ屋敷の前で立ったまま切腹したのだという。その後、柳田地区の住民は気味悪くなり、信玄原に引っ越したという。(で、住民がいなくなった=発展しなかったので、甘利信康の呪いは成就した。)

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 甘利信康の切腹の地には墓と「かるた看板」が立つ。

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