北条時行(『逃げ上手の若君』の主人公)と信濃
「諏訪」と聞くと、室町時代戦国期の諏訪勝頼(高遠諏訪氏。武田勝頼)を思い出しますが、その前の南北朝期のお話───「敵の敵は味方」ということで、北条高塒の遺児・中先代(北条時行)は、南朝(後醍醐天皇)に帰順することになりました。そして、中先代(北条時行)や信濃宮(後醍醐天皇の皇子)を支えたのが諏訪神党になります。
さて、話はさらに遡って、
鎌倉幕府滅亡から「中先代の乱」までの2年間、
北条時行はどこに潜伏していたでしょうか?
★「中先代の乱」までの2年間、北条時行が潜伏していた伝承地
①大祝諏方家住宅
元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府が滅亡した時、諏訪大社大祝・諏訪盛高(北条氏得宗家の御内人。「諏訪三郎」ではない)は、北条泰家の命をうけ、北条時行を抱きかかえ信濃国へ逃走したことにより、「諏方祝部寓居」(諏訪祝部に身を寄せた)。
とはいえ、大祝諏方家住宅では、すぐに見つかってしまうのでは?
②長野県伊那市高遠町三義地区の御所平
2021年に、発行90年を経て復刻された『三義村誌』には「蓋し御所平は親王御駐驛の跡なるべきこと推定に難からざるべし」と、「御所平」「御所の池」「厩の平」を宗良親王関連地名だと推測しているが、リンク先の記事には、
>「宗良親王は大河原(大鹿村)に行けば安全なんだから、ここに来たのは北条時行」
という地元の方の言葉が掲載されている。
長野県下伊那郡阿智村浪合にも御所平があるが、そちらは尹良親王関連地名か?
※長野県上伊那郡三義村(みよしむら。現在の伊那市高遠町の東半、山室川流域)は、昭和31年(1956年)9月30日 、高遠町、長藤村と合併して「高遠町」となり、平成18年(2006年)3月31日、その高遠町が伊那市、長谷村と合併。
※入笠山(にゅうかさやま、にゅうがさやま)は、長野県の伊那市と諏訪郡富士見町の境界にそびえる標高1955.1ⅿの山。登山口は伊那市側と富士見町側にある。
③長野県伊那市高遠町藤沢北原の権殿屋敷跡
北条時行は、家柄が良く、後醍醐天皇に帰順した際には官職を拝領したと思われる。『太平記』(金地院本)には、
───左馬権頭(さまのごんのかみ)
とある。
権殿(ごんどの)古屋敷(長野県伊那市高遠町藤沢北原)は、北条権頭時方の屋敷とされるが、この「北条権頭時方」は「北条左馬権頭時行」のことだという。
北条権頭時方の孫は武士を捨て、「北原」と名乗って土着したという。現在も「北原」姓の家が密集している。
【おわび】 書く気満々で書き始めたのですが、次第に力が抜けて、後半は昨日の出費のショックか、後遺症か、もうへろへろ。お見せできる状態ではないのでメンバー限定記事にさせていただきます。
これが限界。どなたか、私にパワーを下さい!!!!
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