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北条時行(『逃げ上手の若君』の主人公)と信濃

「諏訪」と聞くと、室町時代戦国期の諏訪勝頼(高遠諏訪氏。武田勝頼)を思い出しますが、その前の南北朝期のお話───「敵の敵は味方」ということで、北条高塒の遺児・中先代(北条時行)は、南朝(後醍醐天皇)に帰順することになりました。そして、中先代(北条時行)や信濃宮(後醍醐天皇の皇子)を支えたのが諏訪神党になります。

 さて、話はさらに遡って、

 鎌倉幕府滅亡から「中先代の乱」までの2年間、

 北条時行はどこに潜伏していたでしょうか?


★「中先代の乱」までの2年間、北条時行が潜伏していた伝承地

第二節 中先代の亂
一 時行信濃に匿る
 尊氏は將軍たるべきことを自任してゐたから、賴朝以後三代のことを先代と云うてゐた。それ故、源家と足利家との中間にある家と足利家との中間にある北條氏のことを中の先代といふ。故に、中先代の亂とは北條氏の亂といふに同じである。
 元弘三年の五月北條高時が鎌倉で自殺した時、その幼子龜壽(又は勝壽)は諏訪盛高に負はれて信濃に來り、諏訪賴重の所にかくまはれた。諏訪と鎌倉幕府とはもとから深い關係があつた。諏訪氏は大祝として神に仕へ、一方では武家として北條氏に屬し、北條氏はまた諏訪明神の加護に依賴して承久の亂もその靈顯で勝つたことを信じてゐたくらゐである。
 この時行のかくれてゐた場所についてはいろいろの說がある。上伊那の藤澤谷御堂垣外の權殿(ごんどの)屋敷、又は富縣の福地にゐたなどゝ云はれ、下伊那郡大河原のうち北條坂の麓には北條といふ部落があつて、北條を名乘る家が四戶あり、時行の末孫と稱し、そこには、時行の墓といふのがあるほどであるが、いづくが真なるやは全く不明である。とにかく、藤澤から大河原へかけて、例の赤石斷層線の谷々に時行傳說の分布してゐることは北條に何かの關係があつたと考へられねばならない。

『伊那史概要』

①大祝諏方家住宅

 元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府が滅亡した時、諏訪大社大祝・諏訪盛高(北条氏得宗家の御内人。「諏訪三郎」ではない)は、北条泰家の命をうけ、北条時行を抱きかかえ信濃国へ逃走したことにより、「諏方祝部寓居」(諏訪祝部に身を寄せた)。

元弘3年癸酉5月22日、鎌倉滅亡之時、諏方三郎盛高、奉泰家命、抱時行奔信州、依諏方祝部寓居。

『佐野本系図』11「北条」

とはいえ、大祝諏方家住宅では、すぐに見つかってしまうのでは?

②長野県伊那市高遠町三義地区の御所平

 2021年に、発行90年を経て復刻された『三義村誌』には「蓋し御所平は親王御駐驛の跡なるべきこと推定に難からざるべし」と、「御所平」「御所の池」「厩の平」を宗良親王関連地名だと推測しているが、リンク先の記事には、
「宗良親王は大河原(大鹿村)に行けば安全なんだから、ここに来たのは北条時行」
という地元の方の言葉が掲載されている。
 長野県下伊那郡阿智村浪合にも御所平があるが、そちらは尹良親王関連地名か?

『三義村誌』

長野県上伊那郡三義村(みよしむら。現在の伊那市高遠町の東半、山室川流域)は、昭和31年(1956年)9月30日 、高遠町、長藤村と合併して「高遠町」となり、平成18年(2006年)3月31日、その高遠町が伊那市、長谷村と合併。
入笠山(にゅうかさやま、にゅうがさやま)は、長野県の伊那市と諏訪郡富士見町の境界にそびえる標高1955.1ⅿの山。登山口は伊那市側と富士見町側にある。

  一四、御所平
大字荊口栗木立及大字芝平大下モヨリ東方御所平峠を越へて諏訪郡に通じ、又、佛平峠を越へて甲州蔦木白須に通するの道に當りて一の高原地あり。之を御所平と稱す。海拔5880尺東に入笠山の高峯を控へ、西南北の三方は断崖をなして平坦なる一大台地をなす。一眸克く伊那の平谷を瞰下すべし。其の南方、一段小高き所に雷神の祠あり。台地の脚下に一大池あり。之を御所の池と云ふ。其の廣さ現在300坪斗りあり。四時清水を湛ふ。此の附近に臣下の館趾と思はるゝ所多し。北方約3町の所に厩の平と稱する地あり。
御所平の地は南北朝時代の鏃等の遺物出づ。此地に關する記錄の世に傳はるものなしと雖も、南北朝時代、信濃宮宗良親王、諏訪に住み賜ひ、興国元年(暦応2年なり)甲州白須に戦ひ、破れて世をしのび賜ひ、後、大河原に住み賜へる前後の關係及當地が往昔より甲州白須蔦木より佛平峠を越へて玆に來り、更に御所平峠を下りて諏訪郡に出で、又、芝平荊口に下りて伊那郡に通ぜる道筋にりて伊那郡に通ぜる道筋に當れる周圍地理的關係より推察せば蓋し御所平は親王御駐驛の跡なるべきこと推定に難からざるべし。

『三義村誌』

③長野県伊那市高遠町藤沢北原の権殿屋敷跡

 北条時行は、家柄が良く、後醍醐天皇に帰順した際には官職を拝領したと思われる。『太平記』(金地院本)には、

 ───左馬権頭(さまのごんのかみ)

とある。
 権殿(ごんどの)古屋敷(長野県伊那市高遠町藤沢北原)は、北条権頭時方の屋敷とされるが、この「北条権頭時方」は「北条左馬権頭時行」のことだという。
 北条権頭時方の孫は武士を捨て、「北原」と名乗って土着したという。現在も「北原」姓の家が密集している。

【ゴンドノ古屋敷】本村の南方北原にあり。東西100間、南北25間の平地あり。其の東北の方に山あり。南の方に小川有て西流す。其の形、城跡に似たり。年曆不詳。獺倉谷の住、北條權頭時方居住せしと云。曆應3辰年9月16日亡。紅露葉玉大居士と云。山神に勸請せしと云傳あり。今其の所に山神小社あり。其の孫、民家に下り、北原に住す。氏となす者、今に至り数戸有之。

『藤沢村誌』

【おわび】 書く気満々で書き始めたのですが、次第に力が抜けて、後半は昨日の出費のショックか、後遺症か、もうへろへろ。お見せできる状態ではないのでメンバー限定記事にさせていただきます。
 これが限界。どなたか、私にパワーを下さい!!!!


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