藤長庚『遠江古蹟図会』053「兜塚 梅酢原」
兜塚:直径80m、高さ8mの円墳で、鏡や勾玉が出土している。2段になっており、兜の形に似ているから「兜塚」であって、本多忠勝がこの塚の梅の木に兜を掛けて戦ったから「兜塚」とするのは俗説である。
梅酢原/梅酸原:退却戦において、兵が喉が乾いた時、徳川家康は、「あちらに梅の木が多い。着いたら食べさせてやる」と言うと、兵は梅干を思い出して、渇いた喉が潤ったという。江戸時代の地名は「上野巳新田」であったが、明治に入って、この故事により「梅原村」と称した。以後、王子町→高町→国府台と変遷した。
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