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藤長庚『遠江古蹟図会』053「兜塚 梅酢原」

兜塚:直径80m、高さ8mの円墳で、鏡や勾玉が出土している。2段になっており、兜の形に似ているから「兜塚」であって、本多忠勝がこの塚の梅の木に兜を掛けて戦ったから「兜塚」とするのは俗説である。

梅酢原/梅酸原:退却戦において、兵が喉が乾いた時、徳川家康は、「あちらに梅の木が多い。着いたら食べさせてやる」と言うと、兵は梅干を思い出して、渇いた喉が潤ったという。江戸時代の地名は「上野巳新田」であったが、明治に入って、この故事により「梅原村」と称した。以後、王子町→高町→国府台と変遷した。

兜塚(かぶとつか) 梅酢原(うめずがはら)
 兜塚は、見付宿より池田に通ずる近道(俗に「作場(さくば)道」とも云ふ)北の方、原の畑中に有り。其の形、兜に似たり。俗説に元亀三年壬申九月、此の所にて家康公、信玄公と合戦有り。本多平八郎忠勝、兜を此の所に脱ぎ捨て、大童(わらべ)になりて働きしと也。故に「兜塚」と云ふ説有り。
 又、一言村畑中に広き所有り。この原を「梅酸原(うめずがはら)」と云ふ。其の謂(いはれ)は、神君、此の処に甲州勢と合戦有りし時、軍兵、大に労れ、水を飲みたがりければ、神君、軍卒に向かい、「此の向かふに梅の木多し。彼(かしこ)へ行きたらば、梅を喰はすべし」と宣(のたま)へたり。軍兵、口より口液(つばき)生じ、口中を潤(うるを)したりと。夫より、此の所を「梅酸原」と号(なづく)るよし、俗説なり。


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