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第11回の再放送を観た。

【鎌倉殿の13人 主な退場者】因果応報の伊東祐親ら一挙4人 義時猛反発も…陰謀渦巻くダーク大河本格化
俳優の小栗旬(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は20日、第11話が放送され、俳優の松平健(68)が圧倒的な存在感を示してきた平家の総帥・平清盛、舞台を中心に活躍中の実力派・成河(そんは、40)がインパクトを残した源頼朝の異母弟・義円(ぎえん)、初回から浅野和之(68)が好演してきた八重(新垣結衣)の父・伊東祐親(いとう・すけちか)、竹財輝之助(41)が好演してきた八重の兄・伊東祐清(いとう・すけきよ)が“退場”した。

「鎌倉殿の13人(The 13 Lords of the Shogun)」の「ゴルゴ13(Golgo 13)」化。

<今回の退場者>

・平清盛 :熱病
・伊東祐親:アサシン善児が暗殺
・伊東祐清:アサシン善児が暗殺
・義円  :源義経にそそのかされ、功を焦り、深く攻め込みすぎた。

(1)平清盛の死因


平清盛の死因については、
・2月27日「頭風」、閏2月1日重態(九条兼実の日記『玉葉』)
・「動熱悶絶」(藤原定家の日記『明月記』)
・興福寺を焼いた報いで「日来所悩有り。身熱火の如し」(『百錬抄』)
・「病付き給ひける日より、水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中へ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希也。宣ふ事とては、「あた、あた」と計り也」(病気にかかった日から、水すら飲めなくなった。体が熱を持って、火が燃えるようであった。寝ている所から2~3間(1間≒1.82m)以内に入ると、熱くて堪えられなかったので、近くにいる者は少なかった。言う事は「熱い、熱い」ばかりであった)(『平家物語』延慶本)
とある。

・「潜伏瘧(間欠熱、マラリア)」(小説家・吉川英治)
・「頭風(『玉葉』)=脳出血」(小説家・海音寺潮五郎、吉屋信子)
・「風邪が原因の肺炎」(医学史研究家・服部敏良)
・「風邪が原因の髄膜炎」(日本脳神経外科学会専門医・若林利光)
・「溶血性レンサ球菌感染症」(医学博士・篠田達明)
・「何らかの感染症」(中世史家・元木泰雄)

 高熱が出るのは感染症である。マラリアはマラリア原虫をもった蚊に刺されることで感染する病気であり、冬に蚊はいないはず。インフルエンザは、第一次世界大戦中の1918年に始まった「スペイン風邪」のことで、当時はないはず。もちろん、2019年12月1日に中国武漢で発病(当時は「原因不明の肺炎」)した患者が発見された新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)でもない。
 「閏2月4日に亡くなった平清盛と親しかった藤原邦綱が同時期に発病して閏2月23日に死去したことから、何らかの感染症であったと考えられる」というが、感染症であれば、身近な人々に感染し、同じ症状の死者が多数出たはずである。

 ちなみに、私の説は、「平清盛と藤原邦綱の死亡日は19日離れているから無関係。平清盛の死因は食中毒」である。

■『吾妻鏡』「治承5年(1181年)閏2月4日」条
治承五年閏二月大四日庚戌。戌尅、入道平相國薨〔九條河原口盛國家〕。自去月廿五日病惱。遺言云。「三ケ日以後可有葬之儀。於遺骨者、納播磨國山田法花堂、毎七日可修如形佛事、毎日不可修之。亦、於京都不可成追善。子、孫、偏、可營東國歸往之計」者。

(治承5年(1181年)閏2月4日。午後10時頃、平清盛が(九条河原口の平盛国(平清盛の側近)の家で)亡くなった。先月25日から病気だった。遺言は、「3日以後に葬儀をするように。遺骨は播磨国山田荘の法華寺に納めて、7日毎の形どおりの法事をして、毎日はしないように。また、京都で追善供養をしないように。子や孫は、偏(ひとえ)に、東国帰往(東征)の計略をせよ。)

※『平家物語』では、遺言を「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」(わしの子や孫は、最後の1人になったとしても、源頼朝に、自分の骸(死体)を見せるまで戦え)とする。
 『鎌倉殿の13人』では「頼朝を殺せ。わしの墓前に、あやつの首を供えるのだ」とした。

※後白河法皇は嬉しすぎて今様を詠い過ぎ、喉を壊したという。
  月も日もいかにうれしと思すらむ 流るる星の位まされば
                (『梁塵秘抄』(巻第二)486番歌)
 歌意は「月も太陽もどんなにか嬉しいとお思いであろう。流れ星の位が上がったのだから」と官位の昇進を祝賀する歌。「(平清盛が死んで)伊豆国に流された源頼朝の価値が上がり、太陽(父・源義朝)も月(母・由良御前)も喜んでいるだろう」ということか?

※同年8月1日、源頼朝は、密かに平家との和睦(東日本を源氏、西日本を平家が支配する分割統治案)を申し込んだが、平宗盛は「平清盛の遺言には背けない」として拒否したという。

(2)伊東祐親の死


 伊東祐親は、娘婿・三浦義澄預けとなり、北条政子懐妊の報を受けて、三浦義澄が(『鎌倉殿の13人』では主人公・北条義時が)「恩赦を」と助命嘆願したのが功を奏したが、伊東の方を向いて自害したという。

■『吾妻鏡』「養和2年(1182年)2月14日」条
 養和二年二月小十四日乙卯。伊東次郎祐親法師者、去々年已後、所被召預三浦介義澄也。而御臺所御懷孕之由、風聞之間、義澄得便、頻窺御氣色之處、召御前、直可有恩赦之旨被仰出、義澄傳此趣於伊東。伊東申「可參上」之由。
 義澄、於營中、相待之際、郎從奔來云。「禪門承今恩言、更稱耻前勘、忽以企自殺。只今僅一瞬之程也」云々。
 義澄、雖奔至、已取捨云々。

(養和2年(1182年)2月14日。伊東祐親は、一昨年以後、三浦義澄預けとなっていた。そして、御台所(北条政子)の懐妊の噂が聞えてきたので、三浦義澄は、便を得て(これは良い機会だと)、頻繁に源頼朝の顔色を窺っていたところ、源頼朝が三浦義澄を御前に召して「直ぐに恩赦をしよう」と仰せ出されたので、三浦義澄は、この趣を伊東祐親に伝えた。伊東祐親は「(源頼朝のもとへ)参上する」と言った。
 三浦義澄が(源頼朝がいる)大倉御所で待っているところへ、家来が走ってきて言った。「伊東祐親は、今回の恩赦の言葉をいただくと、かえって前の罪を恥じて、即座に自殺を企てた。ほんの一瞬のことだった」と。
 三浦義澄は(自殺現場へ)走って向ったが、既に(遺体は)片付けられていたという。)

 伊東祐親は、三浦義澄の使者から「源頼朝が『許す』と言った」と聞き、「御所へお礼に行く」と返事したというが、三浦義澄がいつまで待っても伊東祐親は御所に来なかった。そのうち、使者が来て、「罪を恥じて自殺した」というので、三浦義澄が見に行くと、既に遺体は片付けられていたという。この『吾妻鏡』の記述の三浦義澄を主人公・北条義時に置き換えたのが、今回のドラマである。
・「御所へお礼に行く」と言ったのに、なぜ自殺したのか?
・なぜ遺体をすぐに片付けたのか?
 多分、源頼朝は皆に人間の器の大きさを見せようとして「許す」と言ったが、実は許しておらず、暗殺させたのであろう。(「許されざる嘘」をついた!)そして、争った痕跡や、刀傷のある遺体は、即座に処分させたのであろう。
 まぁ、そうドラマチックに「暗殺」と考えなくても良いが。源頼朝は、三浦義澄に「伊東祐親を許す」と言って御所に留め置き、伊東祐親への使者に「今すぐ自害させろ」と命令したのであろう。

(3)義円の死

■『吾妻鏡』「治承5年(1181年)3月10日」条
 治承五年三月小十日丙戌。十郎藏人行家〔武衛叔父〕、子息・藏人太郎光家、同次郎、僧・義圓〔號卿公〕、泉太郎重光等、相具尾張、參河兩國勇士、陣于墨俣河邊。平氏大將軍頭亮重衡朝臣、左少將維盛朝臣、越前守通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、參河守知度、讃岐守左衛門尉盛綱〔號高橋〕、左兵衛尉盛久等、又在同河西岸。
 及晩、侍中廻計、密々欲襲平家之處、重衡朝臣舎人・金石丸、爲洗馬至河俣之間、見東士之形勢、奔歸告其由。仍、侍中未出陣之以前、頭亮随兵襲攻源氏。縡起楚忽、侍中從軍等頗失度、雖相戰無利。義圓禪師、爲盛綱被討取、藏人次郎、爲忠度被生虜、泉太郎、同弟・次郎、被討取于盛久。此外軍兵、或入河溺死、或被傷殞命。凡六百九十余人也。

(治承5年(1181年)3月10日。源行家(源頼朝の叔父)は、長男・源光家、次男・源行頼、甥の僧・義円(「卿公(きょうのきみ)」と言う)、泉重光(山田重満)や尾張国、三河国の勇士を引き連れて墨俣川(長良川)(の東岸)に陣を構えた。平家の大将軍・平頭亮重衡(「頭亮」は「蔵人頭中宮亮」の略)、左少将・平惟盛、平通盛、平忠度、平知度、平讃岐守盛綱(平伊勢守盛国の子。「高橋」と言う)、平盛久(平伊勢守盛国の八男)等が同じ墨俣川の西岸にいた。
 夜になって、侍中(「蔵人」の唐名。ここでは源蔵人行家のこと)は知略を巡らせ、密かに平家軍を攻撃しようとしていたところ、平重衡の舎人・金石丸が、馬を洗おうと、川へやってきたら、東軍(川の東岸の源行家軍)の形勢を見て、走って帰り、報告した。それで、侍中(源行家)がまだ出陣する前に、頭亮(平重衡)の軍隊が源氏軍を攻めた。急な事態に、源行家軍は慌ててしまい、戦いはしたが、利(勝ち目、勝機)は無かった。義円禅師は高橋盛綱(平盛綱)に討ち取られ、源行頼は平忠度の捕虜となり、泉重光は平盛綱の弟・平盛久が討ち取った。この他の軍兵も、或る者は川に入って溺れ死に、或る者は傷を受けて死んだ。死者数は約690余人である。)

 この「墨俣川の戦い」は、「富士川の戦い」に匹敵する重要な戦いで、この後、平家軍が鎌倉に攻め込んでいたら源平合戦は平家が勝利していたと考えられるが、源氏軍(源行家軍)が熱田を経て矢作川(愛知県岡崎市)まで後退すると、平家軍は追わずに引き返してしまった。
 この時、源頼朝は、遠江国守護・安田義定に橋本宿(静岡県湖西市新居町)に橋本砦を築かせた。この時、安田義定は、「浅羽庄司宗信と相良三郎長頼は、私を馬鹿にして築城に非協力的であった」と、源頼朝に処罰を求めている。橋本砦は天伯原の南東端の斜面に築かれた連郭式砦である。源頼朝上洛の従軍の宿舎や、「中先代の乱」の前哨戦である橋本合戦で使われた。


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