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養和の飢饉(1181年4月~1183年)

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 1180年は降水量が少なく、この旱魃により農産物の収穫量が激減した。
 翌1181年には京都を含め、平家の基盤である西日本一帯が飢饉に陥った。
 この1181年4月~1183年の2年間の飢饉を「養和の飢饉」と呼ぶ。

 下掲『方丈記』によれば、死者が多くて葬式が追いつかず、道端に転がる死体の額に「阿」と書いて回り、数を数えると42300人であったという。(『鎌倉殿の13人』では、ウクライナ情勢への配慮か、路傍の死体は映されなかった。)
 4万人以上が亡くなったという事実も凄いが、当時の京都の人口が4万人以上あったという事実も凄い。2人に1人が餓死したとすると、当時の京都の人口は10万人弱となる。

 ターシャス・チャンドラー(Tertius Chandler、1987)によると、1200年の京都の人口は10万人で、鎌倉の人口は17万5千人だという。碓井小三郎も、鎌倉時代の京都の人口を、9万~10万人と推定している。湿地帯で、狭い上に宅地が1/4、耕作地が3/4とされる鎌倉の人口は、京都よりも少ないであろう。河野真一郎(1989)は、武士が1万7500~2万9000人、庶民が3万1600~5万6900人で、石井進(1989)の推定である僧侶1万5000人を加えて、鎌倉の人口を6万4100~10万0900人と推定した。なお、永仁元年(1293年)の地震で2万3024人が死亡しているので、鎌倉には、最低2万3004人はいたことは事実である。

 木曽義仲は、北陸合戦で、10万の平家軍を5万で破ったという。(「倶利伽羅峠の戦い」は『吾妻鏡』には載っていない。軍記物『平家物語』には7万対3万、公家の日記『玉葉』には4万対5千とある。)入京した木曽義仲軍の数が3万人なのか、5千人なのか分からないが、一般的には5万人で入洛したという。この数では、飢饉で人口の半分を失った京都に来て、「軍兵全員の食事を出せ」と言われても、迷惑である。そして、略奪が始まるが、『平家物語』によれば、木曽義仲は「略奪は、西国へ逃げそびれた平家軍の仕業であり、我が軍の仕業ではない」と主張したという。

■鴨長明『方丈記』「養和の飢饉」

 又、養和のころとか、久しくなりてたしかにも覺へず、二年が間、世の中飢渇してあさましきこと侍りき。或は春、夏日でり、或は秋、冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀、事ごとく生(みの)らず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひ、なに事(わざ)につけても、源(みなもと)は田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭(みちのほとり)に飢ゑ死ぬる物のたぐひ、數も不知(しらず)。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。
 又、あはれなること侍りき。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。父母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に「阿」字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四、五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。
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