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「ヤマトタケル野火の難」の場所はどこだ?

(1)『古事記』(中巻)「景行天皇」の記述

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也」。於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。
自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后・名弟橘比賣命白之「妾、易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。」將入海時、以菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是、其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母故七日之後、其后御櫛、依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。

相武(相模)国に至ると、その国の国造が「野に大きな沼があり、そこに千早振る(荒ぶる)神がいる」と言うので、その神を見ようと野に行くと、その国造は、野に火を放った。欺かれたヤマトタケルがヤマトヒメから貰った袋を開けると、火打石が入っていた。剣で草を刈り、迎え火を点けて炎を退けた。生還したヤマトタケルは、国造らを全て斬り殺し、死体に火を点けて焼いた。それで、今、その地を「焼津(やきつ)」という。

(2)『日本書紀』(巻7)「景行天皇40年」の記述

是歳、日本武尊初至駿河。其處賊陽從之、欺曰、「是野也。糜鹿甚多。氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩」。日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情〈王謂日本武尊也〉、放火燒其野。王知被欺、則以燧出火之、向燒而得兔。〈一云、王所佩釼叢雲自抽之薙攘王之傍草、因是得免。故號其釼曰草薙也。叢雲、此云茂羅玖毛。〉王曰、「殆被欺」。則悉焚其賊衆而滅之。故號其處曰燒津。

この年、ヤマトタケルは、初めて駿河国に至る。その地の夷賊(あだびと)は、陽(いつわ)って従ったふりをして、欺いて「この野です。糜鹿(大きな鹿)がとてもたくさんいるのは。吐く息は朝霧のように白く、足には茂林(しもとばら。手入れをしていない雑木林)の雑木のように毛が生えています。狩りを楽しまれてはいかがですか」と言った。ヤマトタケルは、その言葉を信じて、野に入って覓獸(かり)をしようとした。夷賊は王(ヤマトタケル)を殺そうと思い、野に火を放って焼いた。王は騙されたと知り、すぐに燧(火打ち石)で火を起こし、迎え火を焚いて難を免れた。(一書によれば、王が佩いていた剣「叢雲」が自然に抜けて、王の周囲の草を薙ぎ払ったので、難を免れたという。故に、その剣を「草薙」というようになった。「叢雲」は「むらくも」と読む。)王は「殆(あやう)く騙されるところであった」と言い、その夷賊たちを悉く焼いて滅した。それで、その地を号(なづ)けて「焼津(やきつ)」という。


 八岐大蛇(やまたのおろち)の体内からスサノオが取り出した「天叢雲剣」は、伊勢神宮に保管されていたが、ヤマトタケルの東征時、ヤマトヒメからヤマトタケルに渡された。
 ヤマト政権に反抗する国造(通常、その地の有力な豪族が就任する)が、ヤマトタケルを野火で攻めた。ヤマトタケルがヤマトヒメにもらった袋の中を見ると、火打ち石が入っていたので、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、向かい火を焚いて国造たちを焼き殺したとも、天叢雲剣が勝手に動いて、ヤマトタケルの周囲の草を薙ぎ払ったので、火はヤマトタケルまで達しなかったともいう。いずれにせよ、この時から、「天叢雲剣」は「草薙剣」と名を変えた。

 『古事記』や正史『日本書紀』によると、「ヤマトタケル野火の難」の地は「焼津(やきつ」で間違いないと思われますが、その場所については、『古事記』では相模国(神奈川県)、『日本書紀』では駿河国(静岡県中部地方)と異なります。

★「ヤマトタケル野火の難」の候補地
①焼津神社(静岡県焼津市焼津2丁目)周辺
②須賀神社(静岡県焼津市野秋)周辺
③草薙神社(静岡県静岡市清水区草薙)周辺
④久佐奈岐神社( 静岡県静岡市清水区山切)周辺
⑤鞍佐里神社(静岡市清水区由比西倉沢)周辺
⑥天の焼けそめ野(富士の裾野)
⑦大沼神社(神奈川県相模原市南区東大沼2丁目)周辺
⑧小野神社(神奈川県厚木市小野)周辺

①焼津神社(静岡県焼津市焼津2丁目)周辺

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