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第22回の再放送を観た。
1.北条義時の病気
本作の北条義時は、妻を亡くしたショックで鬱状態であるが、実は脚気だったという。
■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)3月12日」条
建久四年(1193)三月小十二日己夘。江間殿自伊豆國被歸參。此間依病氣在國云々。
(建久4年(1193年)3月12日。江間殿(北条義時)が伊豆国から鎌倉に戻った。このところ、病気により、国元にいたという。)
北条義時は元気になり、3月21日、源頼朝と共に、鎌倉を出発し、北関東で巻狩りを行っている。
脚気とはビタミンB1が欠乏して起きる病気である。江戸時代の別名は「江戸患い」。江戸屋敷にいる時は白米を食べるので脚気になるが、国元へ帰ると玄米を食べるので治ったという。
https://www.maff.go.jp/j/meiji150/eiyo/01.html
2.姫の前
比企遠宗
├────┬猶子・比企能員
比企尼 ├長女・丹後内侍(安達盛長室)─名前不明(源範頼室)
├次女・河越尼 (河越重頼室)─郷御前 (源義経室)
├長男・比企朝宗 ─姫の前 (北条義時前室)
└三女・名前不明(伊東祐清室)
比企遠宗の子は、3人の娘で、男子がいなかったので、比企能員を養子にとって養嫡子(嫡男)としたとか、長女・丹後内侍が嫡女であったとか。
姫の前の父・比企朝宗は、比企遠宗の子とされるが、先に書いたように比企遠宗には男子がいなかったといわれ、比企能員を養子にした後に生まれたのかとも思うが、学説は、「姫の前の父・比企朝宗は、比企尼の縁者」「比企尼との繋がりは不明」である。
大倉御所に勤める女官であった姫の前は、源頼朝のお気に入りの美人で、最高の女性であった。北条義時は、1~2年にわたり、恋文(ラブレター)を送り続けたが、無視された。見かねた源頼朝は、北条義時に、「離婚はしない」という起請文を書かせ、2人の仲を取り持ったという。史実は、北条家と比企家を結び付け、将軍家の基盤を強固なものにしようとした源頼朝の政治的判断による婚姻であろう。
こうして建久3年(1192年)9月25日、姫の前は北条義時に嫁ぎ、建久4年(1193年)月日不明に次男・朝時、建久9年(1198年)6月6日に三男・重時を生んだ。(ということは、北条義時は、建久2年から3年にかけて、恋文を送り続けていたことになる。『鎌倉殿の13人』の八重姫の退場は、ちょっと遅かったように思われる。)
■『吾妻鑑』「建久3年(1192年)9月25日」条
建久三年九月大廿五日甲午。幕府官女〔号姫前〕今夜始渡于江間殿御亭。是比企藤内朝宗息女、當時權威無雙之女房也。殊相叶御意、又、容顔太美麗云々。
而江間殿、此一兩年、以耽色之志、頻雖被消息。敢無容用之處、將軍家被聞食之、「不可致離別之旨、取起請文、可行向」之由。被仰件女房之間、乞取其状之後、定嫁娶之儀云々。
(建久3年(1192年)9月25日。鎌倉幕府の女官(「姫の前」という)が、今夜、初めて江間殿(北条義時)の屋敷へ行った(嫁いだ)。この女性は、比企朝宗の娘で、当時、権威無双(比べる者の無い、力の有る女官)であった。殊に御意に叶い(特別、源頼朝のお気に入りで)、また、美人だったという。
それで、江間殿(北条義時)は、この一、二年、惚れて、何度も手紙を送ったが、相手にされなかったので、将軍家(源頼朝)がこの話を聞いて、「離婚しないという起請文を取り、嫁に行くように」と、例の女官に仰せられたので、その起請文を請求し、受け取った後、嫁になることを決めたそうである。)
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