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津島神社の神主家「氷室家」

          大橋定省【桓武平氏】
            ├─────┬信吉─源信重【後醍醐源氏の祖】
            │     ├貞元─定常
            │     └女子
 後醍醐天皇─宗良親王┬桜子       ├良新─定常【氷室氏の祖】
             │         ├神王丸(信重)
             └尹良親王─良王親王
           (源尹良)

  桓武平氏・大橋定省は、後醍醐天皇のひ孫・良王親王を保護し、末娘と結婚させると、良新、信重が生まれた。信重は大橋信吉の摘養子となり、源信重と名乗った。良新には嫡子がいなかったので、大橋貞元の子・定常(貞常とも)を嫡養子とした。大橋定常は、尾張国中島郡氷室村(愛知県稲沢市氷室町)に住んでいたので、氷室定常と名乗った。
 以上が「津島神社の初代神主は良王親王(1435年12月就任)で、彼の子・良新の嫡養子が神主家・氷室氏の祖」とする「大橋家系図」の解説である。

 ──どう考えてもおかしい。

 これでは津島神社が良王親王の時に創建されたことになる。つじつま合わせをすると、
・良王の時に津島神社になったのであり、以前は別の社名であった。
・良王の時に初めて「神主」という職が生まれた。
となるが、史実ではない。
 津島神社の文献上の初見は、平安末期の承安5年(1175年)の『大般若経』奥書(名古屋長福寺蔵)の「津島」である。良新(1415-1492)が生まれた時には津島神社はすでにあり、神職の長官を「神主」(現在は「宮司」)と呼び、氷室家が世襲していた。氷室氏は武内宿禰の末裔・紀氏で、京都の八坂神社の神官であったが、尾張国中島郡氷室村に移って「氷室」と名乗ったという。仁治3年(1242年)の「津島社神主紀範長申状」には、紀範長法師西行が、子・紀右近将監範広を義絶して、末子・牛王丸に神主を継がせるとある。

■津島神社の神主  ※()内は生没年、〔〕内は在職期間。

・承安5年(1175年):津島神社の文献上の初見
紀国範(?-?)〔?-?〕:氷室家の祖
紀範基(?-?)〔?-?〕:尾張国中島郡氷室村に移り「氷室」と称す。
紀範長(?-?)〔?-1242〕:西行。嫡男・範広を義絶。
紀牛王丸(?-?)〔1242-?〕:紀範長の末子。
※1300年代の神主は不明
紀近三郎太夫(?-?)〔?-?〕:応永23(1416)年の在職確認
紀宗長(?-?)〔?-?〕:永享9(1437)年、嘉吉2(1442)年の在職確認
紀広長(?-?)〔?-?〕:天文9(1450)年の在職確認
紀長吉(?-?)〔?-?〕:文明4(1472)年の在職確認
良王親王(1415-1492)〔1435-1492〕:紀広長と任期重なる?
良新(?-?)〔?-?〕:良王親王の子。「大橋家系図」では氷室氏の祖。
氷室貞常(?-?)〔?-?〕:定常。良新の嫡養子。
氷室広長(?-?)〔?-?〕:天文9(1540)年の在職確認
氷室勝長(?-?)〔?-?〕
氷室長盛(?-?)〔1579-1629〕
氷室長俊(?-?)〔1629-1635〕
氷室長吉(?-?)〔1637-1658〕
氷室長徳(?-?)〔1658-1673〕:石黒良通の次男
氷室良長(?-?)〔1674-1694〕:吉見宮内の次男
氷室長命(?-?)〔1694-1709〕:堀田右馬大夫家出身
氷室長満(?-?)〔1709-1728〕:氷室長命の弟
氷室亮長(?-?)〔1728-1770〕:多田義俊に国学を学ぶ。
氷室長英(?-?)〔1770-?〕
氷室豊長(1784-1863)〔1807-?〕:養子(松井弘喬の次男)。氷室長翁。
氷室泰長(1811-1855)〔?-?〕:養子(熱田神宮大宮司千秋家の次男)
氷室為長(?-1899)〔1853-?〕

※氷室銑之助(?-1926):『津島祭礼由縁書』の著者
※氷室昭長 (?-?):鎌倉八幡宮の宮司。嫡子なく氷室神主家は絶家?

※氷室作太夫教文(1861-1940):氷室作太夫家9代目。
※氷室捷爾:氷室作太夫家10代目。「氷室作大夫家住居」を津島市に寄付。

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 なぜ、氷室豊長が、「桶狭間の戦い古戦場伝承地」に「弔古碑」を建てたかといえば、氷室豊長は養子で、実は「桶狭間の戦い」で追い腹を切った松井宗信の子孫・松井弘喬の子だからである。

※「信仰広めた幕末の「御師の家」、復元に動く」
https://www.asahi.com/articles/ASP1X6QBFP17OIPE02K.html
※氷室作太夫家住居の保存活用を進める会
http://himuro-sakudayuu.com/

■津島神社の宮司  
※()内は生没年、〔〕内は在職期間。

吉村清享(?-?)〔1926-?〕:山口県出身。大神神社宮司から転任。
伊達巽(1894-1988)〔1937-1944〕
久保恵一(?-?)〔?-?〕
和出泰夫(?-?)〔?-?〕
伊藤祥文(?-?)〔?-?〕
堀田正裕(1980-)〔2018-現在〕

津島には、「津島四家七党四姓(津島十五党)」と呼ばれる社家がいる。

■津島四家七党四姓(津島十五党)

四家大橋、岡本、山川、恒川
七党堀田、平野、服部、真野、鈴木、河村、光賀
四姓:宇佐見、宇都宮、開田、野々村

織田信秀&信長親子の時代は・・・
神主・氷室兵部少輔広長:多額の借金して天文9(1540)年に夜逃げするも織田信秀に捕まり、説教される。
大橋清兵衛重長入道慶仁:津島四家筆頭・大橋家当主。織田信長の姉・くらの方を正室に迎え、織田弾正忠家の津島支配を支えた。蜂須賀小六正勝とは従兄弟、森可成の母親は大橋氏、林秀貞とも姻戚関係にあり、尾張人質時代の竹千代(後の徳川家康)の面倒を見ていたという。
堀田道空:津島七党筆頭・堀田氏は武内宿禰の子孫・紀氏の末裔(神主家の氷室家とは同族)と称し(一説に秦氏)、戦国期には大橋家や真野家と縁戚関係を結んでいた。
※堀田家住宅(津島市南門前町)
https://www.city.tsushima.lg.jp/shokai/bunka/bunkazai/jyuuryoubunnkazai.html
服部平左衛門康信:津島七党・服部家当主。「桶狭間の戦い」で今川義元に一番槍をつけた服部小平太一忠の父。





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